8月1日、設楽「食」フェスに合わせて、ツアを計画しています。
当日。豊橋駅西口駅前に集合し、以下のコースで奥三河を散策するというものです。企画主催者は黒田です。賀茂神社照山ウオークツアを企画したもので、その第2弾です。参加人数多くなるとは思いませんが、一応、参加締切りを7月20日にします。その時点で、相乗りの調整をしたいと思います。また、運転手等の負担もあり、多少の負担は係ると思います(バスも考えたのですが、山間地で、バスが入りにくいなど考慮して、バスはやめました。ですから、相乗りか個人となる予定です)。なお、文中、写真も入っているのですが、お恥ずかしい話、取り込めないもので、文章だけになってしまいました。チラシもあるのですが、こちらも、次のブログで、打ち出したいと思っています。
ツアの行程:豊橋西駅前⇒石巻神社⇒西郷小学校⇒照山⇒豊川川森(江島あたり)⇒磐座神社(ここまでは、車中見学。磐座神社でアラハバキ神詣で)⇒東栄町榊神社(瀬織津姫祭神の神社)⇒設楽「食」フェス会場(旧名倉小学校、昼食)⇒設楽ダムサイト計画予定地(田口)⇒キララの森あたり(少人数であれば、炭焼き塾の斉藤さん宅を訪問)⇒帰路
*石巻神社と大神神社)つながりはよくわかってはいないが、地名からして、必ずあるとおもう。古代史におけるこの東三河はまだまだ謎だらけで、検証もなされていない。弓張山系に眠る古墳群が何を意味していたのか、それと、持統天皇の訪問、さらには数多くの神社群など。それから、石巻と南朝との関係。これも、はっきりしない。修験道との関係も検証していく必要がある。湖西の大知波廃寺、普門寺の発掘など始まったばかり。
*アラハバキ神)本宮山やこの磐座神社に、入り口に鎮座されているアラハバキ神。谷川健一氏の日本の地名や柴田さんからの引用を示しておきました。
*瀬織津姫)こちらは,菊池さんのブログが詳しいので、それも引用しておきました。
*設楽ダム水没予定地内には、古代、80ヶ所近くの縄文の遺跡が見つかっています。このことと日本の森との関係を知って置くべきだと思います。
*キララの森)こちらは、照葉樹林とは違ったどちらかというと、ブナ林中心の森です。日本の森イメージはこちらの方が強いのかもしれません。白神山地がそうですし、この地域では、面ノ木峠あたりが似ています。
*照葉樹林)こちらは、修験道の熊野山地が該当するかもしれません。
以下、長いけれど、引用文です。
アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)信仰は、東北地方一帯に見られる民俗信仰。その起源は不明な点が多く、「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷(えみし、えびす、えぞ)がヤマト王権・朝廷により東北地方へと追いやられながらも守り続けた伝承とする説が唱えられている。歴史的経緯や信憑性については諸説ある。縄文神の一種という説もある。古史古伝・偽史的な主張と結びつけられることも多い。
アラハバキを祀る神社は約150で、東北地方に多く見られるが、関東以南でも出雲地方などにみることができる。東三河地方にも五箇所存在する。ただしそれは主祭神としてではなく、門客神(もんきゃくじん)として祀られているケースが多い。門客神とは、神社の門に置かれた「客人神(まろうどがみ)」のことで、「客人神」は地主神がその土地を奪われて、後からやって来た日本神話に登場する神々と立場を逆転させられて、客神となったと考えられている。アラハバキが「客人神」として祀られているケースは、例えば埼玉県大宮にある「氷川神社」で見られる。この摂社は「門客人神社」と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたとのことである。
目次
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• 1 蛇神説
• 2 足腰の神説
• 3 塞の神説
• 4 製鉄の神説
• 5 四天王寺との関係説
• 6 外部リンク
蛇神説 [編集]
吉野裕子によると、「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であるという。「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。
伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(これは土用にあたる)の「巳の刻」に行われるというのである。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」だから、蛇と深い関わりがあると容易に想像がつく。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になったという。
足腰の神説 [編集]
長脛彦を祀るということから。
塞の神説 [編集]
宮城県にある多賀城跡の東北にアラハバキ神社がある。多賀城とは、奈良・平安期の朝廷が東北地方に住んでいた蝦夷を制圧するために築いた拠点である。谷川健一によれば、これは朝廷が外敵から多賀城を守るためにアラハバキを祀ったとしている。朝廷にとっての外敵とは当然蝦夷である。つまりこれはアラハバキに「塞の神」としての性格があったためと述べている。
さらに谷川によると、朝廷の伝統的な蝦夷統治の政策は、「蝦夷をもって蝦夷を制す」であったそうで、もともと蝦夷の神であったアラハバキを多賀城を守るための塞の神として配し、蝦夷を撃退しようとしていたという。
製鉄の神説 [編集]
先の、多賀城跡近くにあるアラハバキ神社には鋏が奉納され、さらに鋳鉄製の灯篭もあるという。多賀城の北方は砂金や砂鉄の産出地であるという。
先のアラハバキを客人神として祀る氷川神社であるが、出雲の流れを汲むという(出雲の斐川にあった杵築神社から移った)。出雲といえば日本の製鉄発祥の地である。氷川神社の祀官は鍛冶氏族である物部氏の流れを組むとのことである。氷川神社のある埼玉県は古代製鉄産業の中心地でもあるという。但し、音韻的に斐川は「シカワ」から転訛したものであり、氷川は「ピカワ」から転訛したものであることから、全く繋がりはないとの説もある。
この大宮を中心とする氷川神社群(三ツ星である氷川神社、中氷川神社、女氷川神社に調神社、宗像神社、越谷の久伊豆神社まで含めたもの)はオリオン座の形、つまりカムド(神門)の形に並んでおり、脇を流れる荒川を天の川とすれば、ちょうど天を映した形になっている点は注目に値する。さらにこの氷川神社群は秩父神社群(北斗七星(=アメノトリフネ、ウケフネ)の形に並んでいる)と比企郡ときがわ町の萩日吉神社において一点で交わり一対一で対応していることは、あるいは(その測量技術の精度の高さもあることから)古代朝鮮道教との強いつながりを窺わせる。氷川神社が延喜式に掲載されている古社であり、かつ、氷川神社の主祭神がスサノオになった(=元々主祭神であったアラハバキ神が客人神になった)のは江戸幕府の政治的意図によるものであることからすれば、出雲と氷川の繋がりの話は、大和朝廷による蝦夷(含、渡来人)支配の一過程であると捉えたほうがよさそうである。
近江雅和によると、アラハバキから変容したとされる門客人神の像は、片目で祀られていることが多いという。片目は製鉄神の特徴とされている。近江は、「アラ」は鉄の古語であるということと、山砂鉄による製鉄や、その他の鉱物採取を実態としていた修験道はアラハバキ信仰を取り入れ、「ハバキ」は山伏が神聖視する「脛巾」に通じ、アラハバキはやがて「お参りすると足が良くなる」という「足神」様に変容していったと述べている。
真弓常忠は先述の「塞の神」について、本来は「サヒ(鉄)の神」の意味だったと述べていて、「塞の神」と製鉄の神がここで結びついてくる。
四天王寺との関係説 [編集]
聖徳太子が物部守屋との仏教受容をめぐる戦いを制し建てた、日本初の大寺である大阪市の四天王寺について、アラハバキ及び縄文系との関わりが指摘されている。
四天王寺の地の元来の地名は「荒墓邑」(アラバキ?)であり、場所は縄文系説が言われる物部氏の地に立てたと伝えられる。
現四天王寺の北側に磐船神社(饒速日命の降臨地)が元々あったとされ、物部氏は饒速日命を始祖とする一族であるから、この四天王寺の地は本来、物部発祥の聖地であったと考えてよさそうである
以下は柴田さんのブログからの引用です。
穂国のアラハバキ
穂国宮島郷常左府住・柴田晴廣 様
アラハバキというと東北の神をイメージする人が多いと思います。
しかし、アラハバキを社名とする神社が、東三河=古の穂国に五箇所鎮座します。
まず、第一は、三河一宮砥鹿神社末の荒羽々気社です。そして、第二は、砥鹿神社の奥宮―本宮山に鎮座する同名の荒羽々気社、第三は、国道一五一から本宮山スカイラインに入る三〇一号に道を取り次の信号の右手に鎮座する竹生神社末の荒羽々気社、一五一をさらに北上し、設楽原に鎮座する式内石座(いわくら)神社末の荒波婆岐社、そして、愛知県と長野県の県境―北設楽郡豊根村の下黒川に鎮座する熊の神社末の荒羽々気社と、合計五個所にアラハバキを社名とする社が鎮座します。アラハバキは、東北の神というより、穂国―豊川流域の地主神と言っていいかと思います。穂国の荒羽々気社について整理するとともに、穂国のアラハバキ神に限りという条件付で話を展開させていただきます。まずは、現在あげられているアラハバキについての諸説を紹介します。
従来からの説としてあげられるのは、地主神あるいは門神とする説、賽の神とする説です。
これに対して、吉野裕子氏は、ハバは蛇のことであり、蛇神としています。また、近江雅和氏は、インドの古代神「アーラヴァカヤクシァー」が日本に入ってきてアラハバキ神になったとしています。
一方、盟友・風琳堂主人は、朱桜の古名の波々伽と関係するのではとしています。
そのほか、「東日流外三郡誌」では、長髄彦と関連付けたり遮光器土偶と関連付けたりしています。
穂国のアラハバキ社の祭神を見てみますと、豊根村及び竹生神社の荒羽々気社では荒御魂と、砥鹿神社の荒羽々気社は、里宮、奥宮ともに「祭神」の荒御魂としています。一方、石座神社末の荒波婆岐社は、祭神を豊磐窓、櫛磐窓としています。
石座神社の荒波婆岐社を除き、荒御魂というのが、その実体のように考えれます。
● 砥鹿神社 荒羽々氣社 (左)里宮 (中)奥宮(本宮山) (左)健脚奉納大草鞋
砥鹿神社里宮の荒羽々社は、「砥鹿神社誌」によれば、江戸時代中期までは、個人により奉祭されていたとされますから、この「祭神の」という断り書きをどう読むかです。
砥鹿神社の祭神は、大己貴命あるいは大物主神といわれていますから祭神の荒御魂ということになれば大己貴命あるいは大物主神の荒御魂ということになります。
奥宮の荒羽々気社は、大己貴命あるいは大物主神の荒御魂を祭神とすると見ていいかと思いますが、単に荒御魂ということになれば、瀬織津姫=波波伽神という風琳堂主人の説が、砥鹿神社奥宮を除く東三河のアラハバキ神については、妥当ではないかと思います。
● 石座神社末社 荒波婆岐社
石座神社末の荒波婆岐社は、上述のように祭神を豊磐窓、櫛磐窓としていますが、古事記は、この神を天孫降臨に随伴した神とし、「天の岩戸別の神、またの名を櫛岩窓(くしいはまど)の神といひ、またの名を豊岩窓(とよいはまど)の神といふ。この神は御門の神なり。」と記載し、天岩戸別神の別名とします。
従来説の門神説は、これが根拠になるわけです。
先代舊事本紀は、天窟に坐す神として天尾羽張神(あまのおはばりのかみ)をあげ、この神の別名を稜威雄走神(いづのおばしりのかみ)だとしています。
稜威雄走神からまっさきに思い浮かべるのが、伊豆走湯権現であり、風琳堂刊の『エミシの国の女神』では、遠野の伊豆神社(祭神:瀬織津媛)は、伊豆走湯権現で修行した四角藤蔵が勧請したと書いています。
瀬織津姫と桜=波々伽木の関係については、この掲示板でも何度も触れています。
また、石座神社の祭神は、天御中主とされますが、『エミシの国の女神』でも指摘している通り、その分社(額田町石原)は、天照国照彦火明命(額田郡史)としています。
稜威雄走神=伊豆走湯権現の等式が成り立てば、やはり、風琳堂主人の説が、もっとも正鵠を射ているものと思います。
また、従来説賽の神で思い浮かぶのが、彼岸と此岸の境の三途の川の渡し守=脱衣婆です。この脱衣婆=瀬織津姫とする説もありますから、従来説も瀬織津姫というキーワードを当て嵌めれば風琳同主人と近い説に鳴るのではないかと思います。
また、近江説は、アーラヴァカヤクシァーが大元神となったとしていますが、大元神は、太一神と見れますから、太一神→荒祭宮とみれば、ここでも瀬織津姫が絡んできます。
吉野説もハバ=蛇としているわけですから、ハバキは、蛇神の宿る木ということになると思います。とすれば、蛇神=水神ということになり、水神の宿る樹=桜樹→波々伽木となるかと思います。
では、砥鹿神社奥宮の荒羽々気社をどう解釈するかです。
本宮山と瀬織津姫ということになれば、まず思い浮かぶのが、八合目あたりにある陽向の滝(陽向→天疎向津姫)です。ここが瀬織津姫とすると、ことさら同神をもう一つ祀る必要もないでしょうから、荒羽々気神=瀬織津姫の等式も奥宮の荒羽々気神については、成立しないように思えます。
江戸時代の絵図を見ると、本殿の真裏に薬師堂が建っています。現在は、本殿と休息所をつなぐ道の傍らにある守見殿神社(祭神:和御魂)です。
薬師如来の垂迹神とすれば、大己貴命より大物主神が相当しいのではないかと考えられます。
拙稿でも触れてありますが、大物主神は、男神であり、海光(あまてらし)やってきた神とされていますからアマテル神の祖形と考えられ、その荒御魂ということになれば、消された水の女神と対で祀られていた日の男神と解釈できるのではないかと考えられます。
里宮についても祭神の荒御魂=荒羽々気社、和御魂=守見殿神社(薬師)とされていますから、同様に見ていいのではないのではないかと思われます。
となれば、里宮の消された水の女神は、どこかということになりますが、砥鹿神社の神水を司る饌川水神社(祭神:罔象女)ではないかと思います。
このように、考えていきますと、現在、竹生神社には、瀧神社(瀬織津姫)が鎮座していますし、竹生神社の荒羽々気神=荒御魂も消された水の女神と対で祀られていた日の男神と解釈できますし、石座神社の荒波婆岐社の祭神についても豊磐窓、櫛磐窓とするより祭神(天照国照彦火明命)の荒御魂と解釈できるのではないかと思います。対で祀られた水の女神は、比壺大神(壺神→甕神)となります。
● 竹生神社 荒羽々気社
「東日流外三郡誌」のアラハバキ説に触れる前に竹生神社の荒羽々気社について、もう少し触れさせてもらいます。
「千郷村誌」によれば、竹生神社の荒羽々気社は、白井家が奉祭していたとされています。
アラハバキと白井で思い浮かぶのは、菅江真澄(本名:白井英二)です。
真澄は、「えみしのさへき」で牛窪村の喜八を父母の住む近隣の人としています。
喜八は、牛窪村代田に居住しており、近隣の集落には、白山権現を産土神とする集落があります。
この集落は、吉田に飛び地をもっており、この飛び地から真澄が手習いを受けた植田義方の邸宅までは、二~三百メートルほどです。
さらに真澄の死亡を伝えたとされるのは、渥美郡入文村とされています。渥美郡には、入文村はありませんが、同じ豊川左岸の八名郡に入文村があり、ここの西隣も白山権現を産土神とする集落です。
竹生神社の荒羽々気社の旧跡の近くにも白山権現を産土神をとする集落があります。
白山権現の本地仏は、十一面観音であり、尾張葉栗郡黒田神社では、瀬織津姫=白山権現としていることは風琳堂主人が指摘しています。
真澄と白山権現との関係、さらには、白井家とアラハバキ神との関係から、隠された水の女神と対で祀られていた日の男神という仮説は、補強されるものと思います。
「東日流外三郡誌」の一つの特徴は、アラハバキ王国の王を長髄彦とする点です。
東北の覇者=安倍氏は、長髄彦の兄・安日彦の裔とする系図があります。安倍氏=安日彦の裔とする現存する最古の系図は、藤崎系図です。奥付に永承一三(一五〇六)年とあります。
三河と長髄彦の関係は、拙稿第二話で触れていますが、三河富永氏が長髄彦の裔とする伝承を持ち、野田館垣内城主となる前は、前述の石座神社の神官であったと伝えられています(三河富永系図を所蔵する富永一統の滝川氏は、石座神社の氏子であり、神官も勤めている。)。伝承によれば野田館垣内城主・千若丸が首を撥ねられ、富永氏が野田館垣内城を追われるのは、藤崎系図の奥付の前年、永承一二年のことです。
「東日流外三郡誌」は、菅江真澄(同書では、菅井真澄と表記される。)が関わっていた旨も記載されています。
「東日流外三郡誌」には、三河の伝承の伝播が考えられ、さらには、アラハバキ神そのものの伝播も瀬織津姫の北上から考えれば、三河から東北に伝播したと考えられます。
以下の文は菊池さん「風雅堂」からの引用です。
三 両面宿儺と乗鞍大神
飛騨側の両面宿儺伝説にみられる「英雄」的要素を具体的にいえば、宿儺は千光寺ほかを開創し、武勇に優れ、神祭りの司祭者であり、かつ農耕の指導者であるというものである。宿儺が「神祭り」に関わるというのは、乗鞍岳を霊山と崇め、頂上近くの火口湖である「権現池」で、宿儺は民とともに水面に映る朝日(太陽神)を信仰・祭祀の対象としたことをいう。また、宿儺が「農耕の指導者」というのは、これも乗鞍岳を水源山とする「水」の信仰を反映させたものだろう。あるいは、太陽神(物部氏の祖神でもある)が月神(水神)と一体となったとき、そこでは農耕・豊穣の神ともなることと関係しているのだろう。つまり、先進農耕技術を携えて飛騨国にやってきた物部氏の存在が両面宿儺の「農耕の指導者」伝説には投影しているのかもしれない。
逆説的ないいかたとなるが、『日本書紀』仁徳六十五年条の宿儺の記述に対して、飛騨側がそれを公的に認識したときをもって、はじめて両面宿儺は「英雄」として反転・変貌したのだとおもう。書紀が「皇命」に従わぬとして誅殺した記述をしていなければ、飛騨国において、両面宿儺を「英雄」化する伝説は誕生することはなかったはずである。宿儺の異族・蛮族伝説は中央(日本書紀)とそれに連なる祭祀をおこなう神社側のものであり、宿儺の英雄化伝説は例外なく寺側に帰属している。書紀の記述を反転させて、両面宿儺を飛騨の英雄(神)として伝説化したのは、仏教関係者とみてまちがいあるまい。
宿儺の存在を唯一記す『日本書紀』が完成するのは養老四年(七二〇)のことである。この養老四年という象徴的な時間は、泰澄が千光寺へやってきて白山神社を創建した年でもある。むろん、泰澄が書紀における宿儺の記述をこのときすでに知っていて「伝説」創作に関与したということではなく、泰澄という山岳修験者の名が「養老四年」という象徴的な時点に重なって刻印されていることが暗示的ではないかとおもうのである。
千光寺のある袈裟山(古名は位山)の南麓を東から西へ流れる川を小八賀[こやが]川(宮川支流)というが、この川の水源山が乗鞍岳である。袈裟山からは乗鞍岳や木曽の御岳山が一望でき、千光寺は乗鞍岳を信仰山として仰ぐ山岳修験の拠点寺であった。
丸山尚一氏は、飛騨地方の円空彫像の多くを精力的に探索する過程で「飛騨にのこる円空仏は乗鞍岳をぬきにしては考えられない」と直観的感慨を述べていた(『新・円空風土記』)。円空と乗鞍岳信仰の関係を、千光寺を基点にみてみるなら、まず、千光寺自身が寺伝に両面宿儺の開創をうたい、千手観音をまつる本堂の横には宿儺堂を設けていることに表れているが、ここが飛騨地方における宿儺信仰の拠点寺でもあることがわかる。円空が両面宿儺像を千光寺に奉納したのも、ここが乗鞍岳と両面宿儺信仰をつなぐ要[かなめ]の寺であることを認めていたからなのだろう。
円空は、千光寺をはじめとして、小八賀川流域の寺社の多くに彫像を奉納している。丸山氏は、小八賀川沿いの「神社はほとんどが円空像が神体」と書いている。もっとも「神体」ゆえに拝観がかなわないことも多く、全神社の円空彫像は未確認とことわっている。
小八賀川流域の熊野神社(丹生川町法力)は、丸山氏に「神体」(円空彫像)の拝観を許した数少ない神社の一社である。ここには、十一面観音二体(六六・五センチ、五九・五センチ)と善女龍王(六六センチ)、そして善財童子(五四センチ)の四像があるという。十一面観音が二体あるというのは、一体はどこかからの転入像なのだろう(丸山氏は大きい十一面観音のほうを「熊野権現像」としている)。それにしても、十一面観音・善女龍王・善財童子という円空オリジナルの白山三尊様式の彫像が、武蔵国の久伊豆神社につづいて熊野神社にみられるのは興味深い。これらが熊野神社の「神体」として奉納されていたことから、円空が、白山神と熊野神(と久伊豆神)を異神とはみていなかったことがわかる。
さて、小八賀川流域の熊野神社は右の一社で、あとの大半が伊太祁曽[いたきそ]神社である。いや正確にいえば、伊太祁曽神社の古名である日抱尊宮、日抱神社、日輪神社などを名乗っているところもある。両面宿儺が住んでいたとされるのが飛騨大鍾乳洞近くの両面窟といわれる(丹生川町日面)。「日面」という地名は暗示的だが、この日面にある伊太祁曽神社(主祭神:五十猛[いたける]大神)の由緒を読んでみる(飛騨神職会『飛騨の神社』)。
当神社の創建年代は不詳であるが、乗鞍本宮の里宮の一であることは、山麓にある伊太祁曽神社と同様である。太古当地にある鍾乳洞(出羽が平の鍾乳洞…引用者)に仮住して、皇威に反抗した両面宿儺にまつわる幾多の伝説にも関係のある古社である。
引用のあとには、先にみた『日本書紀』の宿儺誅殺の記述がつづき重複するので省略したが、「両面宿儺にまつわる幾多の伝説にも関係のある古社」だという、その「関係」については、最後まで語られることがないまま由緒は閉じられている。両面宿儺と伊太祁曽神(五十猛大神)の「関係」には、どこか禁忌(タブー)じみたものがあるようである。それは今はおくとして、日面伊太祁曽神社が「乗鞍本宮の里宮」の一つであるということだけはここからみえてきた。
乗鞍岳山頂にある乗鞍本宮(現祭神:五十猛大神、於加美大神、天照皇大神、大山津見大神)の由緒も読んでみよう。
乗鞍(祈座[のりくら])岳は、中部山岳の飛越[ママ]国境に聳える、海抜三〇二六[ママ]メートル(約一万尺)の高峰霊山で、古来乗鞍大権現(鞍ヶ嶺神社)の神体山と仰ぎ、山麓四方の信仰が厚かった。別名を位山・愛宝山とも称し、頂上剣ヶ峰を本宮とし、各別山の頂上毎に諸祭神を祀り、神名をもって山名となし、また、旧火口五湖の内、権現池・大丹生ヶ池・鶴ヶ池等には霊水を湛え、雨乞・祈晴に霊験があると称されている。これらの水は、丹生川及び阿多野川の本流となり、北流して神通川、南流して飛騨川となる。またその流名をもって地名・村名・郷名となし、その流域には里宮として、式内槻本神社・御崎神社等の古社を初め、分社伊太祁曽神社を祀ること数十社にも及んでいる。
小八賀川の上流部は丹生川といい、これがかつての村名にもなっているようだ(現在の高山市丹生川町)。また、乗鞍岳の異称に「位山」の名がみられるが、この異称山名は、袈裟山の旧名としてもあり、また飛騨国一宮・水無神社の神体山の名としてもある。飛騨地方には「位山」が三つあるということになる。由緒から、乗鞍大神が分水嶺の神(水分[みくまり]神)であることは伝わってくるが、その筆頭祭神は、『日本書紀』でスサノウの子神とされる五十猛大神と表示していて、水分神=水神の名としては不自然な神名があてられている。
乗鞍本宮の由緒によれば、同山を水源山とする川の流域には式内社二社のほか「分社伊太祁曽神社を祀ること数十社」が「里宮」としてまつられているという。和歌山市伊太祁曽に鎮座する紀伊国一宮・伊太祁曽神社は、五十猛命・大屋都比売命・都麻津比売命の三神をまつっている。これら伊太祁曽三神は、『日本書紀』の八岐大蛇退治神話の段の補足神話で記される神々である(『古事記』には記載がない)。三神ともスサノウの子神とされるが、その母神(スサノウの妻神)は記されることなく、出自(神統譜)不明の神々である。新羅国へ一旦降臨するも日本へもどり、国中に木を植えて「青山」にしたと書かれ、紀伊国でまつられるとされる。
飛騨の伊太祁曽神社は紀州のそれと習合しているようだが、三神のうち五十猛命のみが乗鞍大神とみなされ、あとの二神(女神)は飛騨では無視[スポイル]されている。この本家筋とみられる伊太祁曽神は、もともとは日前宮(日前[ひのくま]・国懸[くにかかす]神宮、和歌山市秋月)の宮地にまつられていたとされる。日前宮祭神の日前大神は日像[ひかた]鏡、国懸大神は日矛[ひぼこ]鏡を神体とし、これらは伊勢の天照大神の「前霊[さきみたま]」で、皇祖神と「同体」というのが日前宮側の説明である。この「前霊」の不可解性について、瀧川政次郎氏は次のように述べていた(『ひのくま』〔『覆刻・日前神宮国懸神宮本紀大略』別冊〕日前・国懸両神宮社務所、所収)。
霊魂にアラミタマ(荒魂)とニギミタマ(和魂)とがあって、両者いずれもクシミタマ(奇魂)とも称されることはどうにか理解されるが、霊魂にサキミタマ(前霊)とアトミタマ(後霊)とがあるということは、私の理解を超越している。従って私には日前・国懸両神宮に如何なる神が祭られているのか不明である。〔中略〕
天武朝における記・紀編纂者達は、何とかして紀のクニの祖神を高天原パンテオンに組み入れようとして、日前国懸神社の御神体である御鏡は、伊勢大神宮の御神体である宝鏡と同笵鏡であるという説を唱え出したものと思う。
瀧川氏の怒気を含んだ疑問は、だれもが日前宮の由緒を読んだときに感じることだ。日前宮についての疑問ということでいえば、その社殿構成についてもいえる。つまり、日前大神(向かって左殿)と国懸大神(同右殿)は明らかに「並祭」されていて、この「並祭」祭祀をそのままにして、内宮(皇祖神)と同神祭祀を主張するのは、これも奇妙なことである。
この謎めいた日前宮に、伊太祁曽神はもともとまつられていたとされる。ここで第三の疑問点を書いておくなら、新たな日前神・国懸神ばかりでなく、その放逐された伊太祁曽神の双方に、紀氏(紀伊国の国造家)が祭祀者としてあったということである(『先代旧事本紀』地神本紀)。自社祭神(日前・国懸神)を準皇祖神としてまつる一方で、放逐したはずの伊太祁曽神祭祀も手放さなかった紀氏の行為からみえてくるのは、紀氏の神まつりが、明らかな自己分裂の姿を呈しているということである。いいかえれば、神宮祭祀に準じることを受容した紀伊国の国造家があり(現代までつづく)、一方、本来の日前神の祭祀に執着した紀氏もいたのである。
この日前宮の不思議な祭祀は、神宮祭祀の立ち上げによって、それまでの伊勢の「地神」の祭祀が改竄されたように、もともと同質の祭祀をおこなっていた紀伊国でも、その元神祭祀が変質化された可能性があることについてはすでに指摘したことがある(『エミシの国の女神』)。このことに関して、名草杜夫「古代きのくに散歩」(『ひのくま』所収)に興味深い記述がみられるので紹介しておく。曰く「国造職譲補の際『七瀬の祓』においておこなわれる神幸式は国造一世一代の神事である」とされ、その「神幸式」における「渡御の行列は、日前大神は御榊が神輿の代りであり、国懸大神の方は御鉾が神輿の代りであった」という。紀伊国の「国造一世一代の神事」が「七瀬の祓」で、その「神幸式」における「御榊が神輿の代り」とする日前大神である。伊勢の「地神」であった瀬織津姫神はツキサカキの神(榊に憑依する神、洲原白山では「秘榊の神」)で、また、神宮思想(中臣思想)においては、この神は大祓神とみなされていた。日前神が、どういった神を秘して伊勢の皇祖神と準「同体」といっているのか、これ以上に雄弁に語る「神事」はあるまい。日前大神の名のもとに消された(放逐された)神こそ瀬織津姫神であった。
日前神宮第五十七代宮司・紀俊文の歌にも「榊」は詠まれている(『風雅和歌集』)。
名草山とるや榊のつきもせず神わざしげき日のくまの宮
日前宮は「桧隈宮」とも書くが、歌にみられる名草山は「榊」の山で(現在は「桜」の山)、日前宮からは「神山」とも「三井神山」とも呼ばれる特別の山である。「三井」というのは、ここに真言宗「紀三井寺」があり、その寺名にもみられるように、ここには三つの「井」があるゆえである(一つは「一条滝」という)。ちなみに、紀三井寺の本尊は十一面観音である。
神宮(皇祖神)祭祀の立ち上げと連動するように、日前宮からは(も)瀬織津姫神の祭祀は消えた。そして、日前宮から放逐されたとされる伊太祁曽神である。伊太祁曽神に消えた瀬織津姫神が投影していないはずがなかろう。放逐後の伊太祁曽神の遷座先は、現在の和歌山市伊太祁曽の「亥の森」とされる。大宝二年(七〇二)には、伊太祁曽三神の「分祀」の勅命が発せられ(『続日本紀』)、和銅六年(七一三)には、現在地へのさらなる遷座がなされたとされる。伊太祁曽神社の現主祭神は「五十猛命」で、この主神表示が飛騨国の伊太祁曽神社の「五十猛大神」の表示に反映していく。
ところで、伊太祁曽三神をまつる社名は、『延喜式』神名帳(九二七年成書)紀伊国名草郡の項では「伊太祁曽神社」「大屋都比売神社」「都麻都比売神社」と表示されている。平安末期までにはつくられたとされる紀伊国の『本国神名帳』は、伊太祁曽三神の「神名」を「伊太祁曽大神」「大屋大神」「妻都比売大神」としている。これらの表示から気づくのは、伊太祁曽神は、ほかの二女神と同様に「神名」であったということである。五十猛命が当初から伊太祁曽神とみなされていたかどうかは早計に判断すべきではない。
現・伊太祁曽神社の前社地「亥の森」には「三生[みぶ]神社」という小さな祠が境外摂社として鎮座し、ここも伊太祁曽三神(五十猛命・大屋津比売命・都麻津比売命)をまつっている。三生神社の「三生」は、大宝二年に伊太祁曽神が「三神」化されたこと(三分神として誕生したこと)にちなむ命名ではなかろうか。明証的な記録があるわけではないが、大宝二年(七〇二)、日前大神の大元神は伊太祁曽神として放逐され、元の神名を伏せられて三神化された可能性がある。五十猛命ほかの神名を記す『日本書紀』が成るのは養老四年(七二〇)のことで、伊太祁曽「三神」を分祭せよとする「勅命」が発せられた大宝二年(七〇二)からは十八年後となる。大宝二年の分祭の勅命においても伊太祁曽神で、五十猛命とは書かれていないことに注意する必要があろう。
現・伊太祁曽神社は奥宮を丹生神社とし、境内摂社には御井社を抱えている。前社地の「亥の森」は「井ノ森・井守」ともみられ、丹生神・御井(三井)神にしても水神で、伊太祁曽神の原像的神徳は、書紀が記す「木神」である前に「水」と深く関わっているようだ。この三井=御井は、名草山の「三井」をルーツとしていることも考えられ、とすれば、日前神も伊太祁曽神も故地あるいは聖地を同じくしている可能性がある。紀ノ川の上流部は吉野川で、さらなる上流部は丹生川である。飛騨の小八賀川の源流部の川名も丹生川で、乗鞍連峰の一角には大丹生ヶ岳があり、雨乞いの聖池とされる大丹生ヶ池(円空は、この池の神=乗鞍大神が里人に「祟る」ことを聞いて鎮魂供養の彫像をしている)があるのも、日前神の元神・伊太祁曽神祭祀の影響が顕著である。
飛騨における伊太祁曽神社の「いたきそ」は、乗鞍大神の尊称である「日抱尊[ひだきそん]」が転じたものである。この転訛・変転については、たとえば、丹生川町白井の日抱神社の由緒が、乗鞍岳(本宮)を「日抱尊宮」と称したゆえに、自社を再興するにあたって日抱神社と「旧称」するとしていたことからもわかる(『飛騨の神社』)。長谷川忠崇『飛州志』も「所謂日抱尊ハヒダキソン・ヒダキソ・イタキソン・ダキソン以上四称アリ、所詮日抱尊ノ一字ヲ誤リ伝フルナルベシ」と述べていたが(日抱神社由緒)、この指摘はそのとおりだとおもう。
四 日抱尊=伊太祁曽神と乗鞍大神
日抱尊[ひだきそん]がイタキソから伊太祁曽へと転じることが、なぜ許容されたのか、あるいは暗に強制されたのかについては、おそらく、日抱尊の異称をもつ乗鞍大神そのものが、禁忌的な神名を秘めていたからだと考えざるをえない。しかも、この禁忌的な神名は、紀州の伊太祁曽神(あるいは日前神)そのものとも無縁ではない。なぜなら、飛騨の「日抱尊宮」の本社筋にあたるといってよい紀伊国の伊太祁曽神社にも、飛騨と同じく「日抱尊」の伝承があったからである。
紀伊国の伊太祁曽神社所蔵「縁起絵巻」(成書時期は室町期を下らないとされる)には「日出貴[ひだき]大明神像」の絵像がみられる(西田長男・三橋健『神々の原影』平河出版社、所収)。この日出貴大明神像は、座像の女神が「鏡」を胸に抱いている像で、伊太祁曽神社の内部では、ある時期、この日出貴大明神=日抱尊は、今日一般に流布される五十猛大神(男神)とは異質な神とみられていたようだ。
『神々の原影』によれば、この日出貴大明神は「級長津彦[しなつひこ]」(「縁起絵巻」成書時の伊太祁曽神社祭神)のこととしていて、その解釈は、天照大神の岩戸隠れのとき、級長津彦が岩戸を引き開いて「天照大神を懐[いだ]き奉った」、その功績によって「太刀男[たちからお]明神」の名を賜ったもので、また「天照大神を懐き奉った」ゆえに「日出貴大明神」ともいう、とされる。天照大神を闇の洞窟から救い出した神は級長津彦=太刀男明神とのことだが、絵像の神は明らかに「女神」で、この「縁起絵巻」は魅力的な矛盾をあえて説明していない。また、絵巻の縁起と現祭神を突き合わせると、伊太祁曽神社の祭神には大きな変遷があったことがわかる。伊太祁曽神が級長津彦=太刀男明神あるいは五十猛大神のいずれにしても、また、伊太祁曽三神に拡大してもよいが、その原像に「日抱尊」という女神がみられるのは重要である。
『日本三代実録』貞観九年(八六七)三月十一日条には、信濃国の「建御名方富命神」を従一位に、「建御名方富命前八坂刀自命神」を正二位にと進階を記したあと、「梓水神」への神階授与(従五位下)の記述がある。貞観時代、中央からは、乗鞍大神は「梓水神」と認識されていた。乗鞍大神は、飛騨側では「日抱尊」の尊称で呼ばれ、信濃側では「梓水神」と認識されていた。この梓水神をまつる一社に神林神社があるが(松本市神林)、同社が梓水神を瀬織津姫命と表示・認識していることについてはすでにふれた(本書「白山信仰にみる瀬織津姫神」)。
元禄三年のことだが、円空は禅通寺(高山市奥飛騨温泉郷一重ヶ根)に一年ほど籠っていたとされる。円空は温泉で湯浴みしながら、乗鞍岳ほかに登拝し、近在の寺社・民家に多くの彫像を残していたこと、また、歌を詠んでいたことが、同寺の由緒に記されている。禅通寺の寺伝は、貞観年間に乗鞍岳に三年つづけて「紫雲」がかかり(『三代実録』に記録がある)、これを機縁に山伏がやってきて「騎鞍[のりくら]権現」の本地仏として十一面観音をまつったのを寺の創祀としている。
円空にとって、禅通寺での一年(の湯浴み生活)は、生涯におそらく二度とない穏やかな時間であったことが想像される。それにしても、山伏=修験者が乗鞍(騎鞍)権現の本地仏を十一面観音と認識していたことは、乗鞍大神=梓水神が瀬織津姫神であることがわかってみると、いかにも神仏習合の秘められた理にかなうものであった。
小八賀川(丹生川)流域には伊太祁曽神社が集中している。丹生川町日面の両面窟の宿儺伝承で、同窟近くの善久寺の寺伝に興味深い記述がある。
今を去る一七〇〇年ほど前に両面宿儺大士が出現し、この地に草庵を建て善久寺と名づけました。篤く三宝を敬い、十一面観音菩薩を深く信仰し、地域の産業発展に尽力されたといいます。その約七〇〇年後、京都横川の天台宗慧心院の僧都が両面宿儺は十一面観世音菩薩の化身と聞き、十一面観音像を刻んで当寺へ贈られたと伝えられています。
仁徳時代(四世紀)の両面宿儺が「寺」を創建し、また「篤く三宝を敬い、十一面観音菩薩を深く信仰」したと書かれている。これまでの、寺社にみられた両面宿儺伝承と善久寺のそれを総合すると、両面宿儺は「出羽が平の鍾乳洞」に「仮住」する者で、宿儺は、その鍾乳洞(洞窟)から出てきて、日面に一草庵を建て、そこに乗鞍大権現の本地仏である十一面観音をまつって善久寺と命名した、ということになる。ここにみられる両面宿儺は、ほとんど修験者の比喩といってよい(鍾乳洞の近くには「宿儺の滝」もある)。
善久寺の縁起でさらに興味深いのは、浄土教の聖典『往生要集』の作者・源信とおもわれる人物(源信は慧心僧都[えしんそうず]とも横川[よかわ]僧都とも呼ばれる)が「両面宿儺は十一面観世音菩薩の化身」と聞き及んで、自ら十一面観音を彫って善久寺へ贈ってきたとされることだ。この十一面観音は、群を抜く優美さをもっていて、素人目にも、超一級の彫像表現に達している(写真)。源信は、両面宿儺の本質を見抜いた上で、この十一面観音を彫像した感がある。善久寺には、ほかに「両面宿儺菩薩」の秀作も準秘仏扱いでまつられていて、円空は、これらの像を前にして、ここに自作の十一面観音も両面宿儺像もあえて奉納する必要を感じなかったのではなかろうか。彼は、善久寺へは、両仏を守護する「伽楼羅像」(護法神の一種)一体を奉納することでよしとしたようだ。
円空は、この両面窟(「出羽が平の鍾乳洞」)でも窟籠りの行をしていた。これは、つまりは両面宿儺との対話をしていたということでもある。円空歌に、この窟を詠んだ一首がある。
在かたや出羽岩窟来て見よけさの御山の仏なりけり(歌番四)
(ありがたや出羽の窟[いわや]に来たりて見よ袈裟の御山の仏なりけり)
千光寺のある袈裟山(位山)の神の本地仏は十一面千手観音である。こういった歌を読むと、両面窟(「出羽岩窟」)に、円空は千手観音を彫ってまつりおいたことも想像されてくる。
それにしても、十一面観音と習合する神は乗鞍大神=梓水神=日抱尊であり、両面宿儺の本拠地(日面)においては、宿儺は十一面観音を信仰していた、あるいは、十一面観音の化身だということになっていて、この観音の背後では、両面宿儺と瀬織津姫神はほとんど重なろうとさえしている。
飛騨国の神社祭祀で、両面宿儺が祭神としてまつられることがなかったように、瀬織津姫神を祭神として表示する神社は現在、一社もない。しかし、飛騨国がもともと尾張物部氏の系による「国造」を擁していたことを考えると、また、乗鞍岳の信仰がこれほど根深く定着している国であることを考えると、かつて物部氏がまつった太陽神(火神)と月神(水神)の祭祀は、志摩・伊勢・白山などと同様に、たとえ変質化はあっても完全に消えたとはおもえない。円空の「地神供養」の彫像が、これほど集中してみられる飛騨国である。円空の彫像が、趣味や芸術意識によるものではなく、山岳霊地の地神を「供養」する精神で彫られていたことを忘れてはならないだろう。
小八賀川流域には伊太祁曽神社がたしかに多いものの、先にみたように、なかには日抱神社というように「旧称」にこだわる神社もある。乗鞍岳を遙拝する多くの伊太祁曽神社群のなかで、同じく乗鞍岳信仰のもとに「日輪神社」という社名を名乗るところがある(丹生川町大谷)。この「日輪」は太陽の環(リング)のことで、「日抱」と同意である。
日輪神社がほかの乗鞍岳信仰社と一線を画しているのは、自社祭神名に伊太祁曽神=五十猛大神を表示していないことだろう。『飛騨の神社』によれば、同社祭神は「天照皇大御神・倉稲魂[うかのみたま]大神・火武主比[ほむすび]大神・奥津日子大神・奥津比女大神・菅原道真公」の六神をまつるとされる。同社由緒には、明治四十年に「稲荷・天満・荒神の三社」を合祀したとあり、祭神六神から「稲荷」(倉稲魂大神)・「天満」(菅原道真公)・「荒神」(奥津日子大神・奥津比女大神)を除いてみると、日輪神社は天照皇大御神と火武主比[ほむすび]大神を元神としていたらしいことがみえてくる。火武主比大神とは火結大神のことで、この神は、一般的には愛宕神社あるいは伊豆神社の祭神とされることが多い。由緒は、愛宕神社も伊豆神社も合祀した記録を載せておらずはっきりしない。同社氏子の方によれば、日輪神社は背後の山をご神体とし、この山の山頂は乗鞍岳から昇る太陽を「神」と崇める拝所とのことである。日輪神社の筆頭祭神に「天照皇大御神」がおかれているのは、この太陽神信仰によっているのだろう。
祭神の火武主比大神(火結大神)は宙に浮いたままだが、日輪神社の由緒がさらに特異なのは、『飛州志』曰くとして、「小八賀郷大谷村ニアリ。来由未詳、按ズルニ或曰祭神天照大神ノ荒魂ト云」と、きわめつけの伝承を『飛州志』に代弁させていることだろう。なお、紀伊国における伊太祁曽神は「勅命」によって三神分祀が強制され(大宝二年)、その後、つまり、平安期の『延喜式』神名帳では三社ともに「明神大社」と記されていたように、朝廷からは最重視すべき三神祭祀とみられていた。このうちの「都麻都[ママ]比売神社」の論社の一つに高積[たかつみ]神社がある(和歌山市禰宜)。同社祭神は高積比古命、高積比売命の二神とされるが(『紀伊続風土記』は都麻津姫命、五十猛命、大屋都姫命としている)、江戸期、ここは「高御前神社」という社名だった。同社由緒には「或説」として、この高御前神社は「天照大神の荒魂をまつるなりともいふ」と、日輪神社と同じ伝承があったことが記録されている(『紀伊名所図会』)。
日輪神あるいは伊太祁曽神=日抱尊は「天照大神ノ荒魂」と伝えられていたこと、いいかえれば、瀬織津姫という伊勢の秘神を日抱尊とみる伝承が、飛騨国と紀伊国に共通してあるのは偶然ではない。神宮が現在の形式で立ち上がる前は、つまり天照大神が男神から女神に変更される前は、この男神の日神と対[つい]の関係の祭祀がなされていたのが月神=瀬織津姫神であった。小八賀川流域には、このことに深く関係する伊太祁曽神社もある。
丹生川町旗鉾にある伊太祁曽神社は、現祭神を五十猛大神を主神とし天照皇大神をあわせてまつっている。同社の社殿配置をいえば、伊太祁曽神社(五十猛大神)は向かって左に、旗鉾大神宮(天照皇大神)は向かって右に建てられ、これらは明らかに「並祭」されている。旗鉾伊太祁曽神社は江戸期まで日抱尊宮だったが、祭神の五十猛大神=日抱尊を天照大神荒魂=瀬織津姫神にもどしてみるなら、この「並祭」形式は、伊雑宮をはじめとする神宮の基層祭祀の姿を反映していることになる。
谷川健一編『日本の神々』第九巻(白水社)は、伊太祁曽宮(丹生川町旗鉾)の項で「ここに天照皇大神宮が祀られた時期は新しい」としているが(同書は江戸末期の文化時代とみている)、『飛騨の神社』は「その創立年月は不詳」ではあるものの「当初より今の地に鎮座していた」としている。また、都竹昭雄『飛騨の霊峰 位山』(今日の話題社)も「古い時代からこの地にあった神社です」としている。『日本の神々』と地元の二書では大きなくいちがいをみせているが、これは、次にみるように、地元の伝承のほうが正しい。
江戸末期の文化八年(一八一一)四月、旗鉾伊太祁曽神社に一大「事件」がおこる。それは、日抱尊宮(のちの伊太祁曽神社)境内社の旗鉾大神宮に「突如皇大神宮の御降臨があった」というもので、事件の噂はまたたくまに近隣諸国に伝わり、多いときは、参拝客が一日二千人にも及ぶ騒ぎとなった。同年六月に、地元代表者が高山御役所に提出した報告書(『飛騨の霊峰 位山』所収)には「宮地内ニ神明之由申伝へ往古より石之小祠有之候」と書かれていて、旗鉾大神宮(神明の石之小祠)が「往古」よりあったとされる。ここには、神明(天照大神)の鎮座を古くみせようという作為はない。報告書は「当村(旗鉾村)地内字大西平日抱尊宮(のちの伊太祁曽神社)地内神明小祠(のちの旗鉾大神宮)江俄ニ参詣人有之奉納物等も御座候に付き御許し出候」云々と書き出していて、領内を騒がしていることを詫びる内容となっている。
この皇大神宮の突如の降臨を拝もうと参詣人が押し寄せた騒ぎは「国中国外挙って群集は列をなし、町方より当地に至る道路の両側には、休息所や店舗が一二〇余軒も立並ぶ有様であった」と描写される(『飛騨の神社』)。国内外からの参詣の過熱ぶりに、これを諷する戯作も書かれ(十返舎一九『東海道中膝栗毛』を摸した満酒亭『旗鉾参宮下手栗毛』)、また、狂歌も多く詠まれたという。「旗鉾参宮狂歌」と題された狂歌のいくつかを読んでみる。
伊勢よりもひよととぶ日の神なればきへざるやふにあふけ人々
夏のうちしばしすゞみに爰[ここ]へ来てはや秋風と伊勢に帰るな
日の御神飛騨へひよこりと飛び玉ひひだは日に日ににぎはひにけり
ゆだんして又とばするな日の神を抱きしめ居ませ日抱明神
前の三首は、飛騨人が伊勢の「日の神」の訪問(降臨)を大いに歓迎しているさまが詠まれている。これらは「人間」の感情をベースとした歌といってよいが、四首めは少し趣がちがっていて、つまり、日抱明神(日抱尊)という「神」の感情をおもいやって詠まれていて特異である。この最後の歌を意訳すれば「せっかくあなたに会いにやってきた伊勢の日の神さんだ、油断して二度と伊勢へ帰すことなく抱きしめていなさいよ、日抱明神さん」といったところだろう。
伊勢の地で、かつては「並祭」という一対の関係にあった天照大神(日神)とその「荒魂」こと瀬織津姫神であった。七世紀という古い時代の話だが、この「並祭」の上に神宮祭祀=皇祖神祭祀が立ち上げられたことで、その並祭の関係も元の神名も封じられ、あるいは、その関係を引き裂かれて「日の本」の歴史の闇に放逐された瀬織津姫神であった。この神が伊勢を、あるいは日前宮をあとにするとき、胸(心中)には日神が抱かれていたことが想像される。
奥飛騨で長く孤独に耐えていた乗鞍大神=日抱尊のところへ、伊勢から「日の神」が突然に現れた(降臨した)のである。飛騨国に突如出現した伊勢の「日の神」が皇祖神の日神(アマテラス)であろうはずがなく、この狂歌作者は、日抱尊祭祀と神宮祭祀の内実によほど通じていた人物のようだ。
この「事件」は円空の時代からははるかに下るものだが、四首めの狂歌作者と円空は同じ眼と心情をもっていたものとおもう。丹生川町池之俣にも伊太祁曽神社(現祭神:五十猛大神)があるが、ここは「古来旗鉾大神宮の奥の宮とも称してきた」とされる(『飛騨の神社』)。池之俣伊太祁曽神社は旗鉾伊太祁曽神社と同様に、本殿横に神明社(現祭神:天照皇大神)の小さな祠を並べている。この池之俣伊太祁曽神社では、円空作の男女神像(三四センチ、二八センチ)が確認されている(『円空研究』第四巻)。同書によれば、旗鉾伊太祁曽神社の拝殿では男神像(三六センチ)一体も確認されていて、これらの男神像はすべて天照皇大神像とみてよい。女神像はいうまでもなく伊太祁曽神=日抱尊=乗鞍大神を表したものである。それにしても、池之俣伊太祁曽神社の男女神像は、ともに実に柔和な表情をしている(写真)。円空が天照大神を男神像として彫った現存数は八体といわれるが(池田勇次『怨嗟する円空』牧野出版)、奥飛騨の伊太祁曽神社の「神体」がすべて確認できるなら、その数は一挙に増えることになろう。
円空は、乗鞍岳北麓の平湯温泉の薬師堂に、七体の力作像を奉納していた(現在、冬期は禅通寺に移管)。これらの像のうち三体の背には、次のような円空の墨書が確認できるという(丸山尚一『新・円空風土記』)。
雪巌峯大権現大法山下殿宮(薬師如来像、七八・八センチ)
雪巌峯下殿大権現(僧形像、七八・七センチ)
雪巌峯窟下殿金剛童子(不動明王、六一・四センチ)
円空は、これらのほかに、聖観音像(五二・八センチ)、不動明王(四三センチ)、金剛童子像(三一・八センチ)、僧形像(三一センチ)の四体も彫っていたようだが、中心となるのは「雪巌峯」云々の背銘をもつ三体であろう。円空は乗鞍岳を「雪巌峯」と呼んでいた。「雪巌峯大権現大法山下殿宮」の像は薬師如来とされてきたが、この像は飛騨国分寺に奉納された弁財天像と似ていて、わたしには薬師ではないようにみえる(写真)。円空の彫像には像種の命名・確定に困るものがときどきあるが、これもその一つだろう。像高からいえば「雪巌峯大権現大法山下殿宮」と「雪巌峯下殿大権現」の像はほとんど同じで、これら二像が「対」の関係を構成していて、それよりも少し小さな「雪巌峯窟下殿金剛童子」つまり不動明王が、この一対像の守護神として添えられたようだ。
像種の命名はおくとしても、円空が乗鞍大権現=雪巌峯大権現に深いおもいがなければ、これらの像は彫られることはなかっただろう。
(つづく)
槻神社(北設楽郡東栄町大字月字寺甫七)の紹介です。
以下は、槻神社境内に掲げられている由緒表示板の全文です。
由緒記
一、神社名 槻神社
一、鎮座地 東栄町大字月字寺甫七番地
一、祭 神 瀬織津姫命(従五位上、元槻神社・郷社)
伊邪那岐命(元熊野神社・村社)
建御名方命(元宝大明神・村社)
一、由 緒
当槻神社は神階延喜式内国内神名帳に従五位上槻村天神の名称をもって記載されている。当初大字月字引田十一番地に鎮座ましまし祭神は瀬織津姫命を祀るも奉祠年月日は明らかではない。慶安三年庚年九月之を再建、更に享保十九年甲年三月再度社殿の建替えをする。古来月部落の産土神であると共に且また東栄町内東部々落一円の崇敬社としてかなり隆盛を極めた時あるも、その後、時代の変遷と共に月部落の産土神としての特色を持ち氏子よりひたすら崇敬されていた。明治五年郷社に列しその后、明治四十二年四月七日村社熊野神社の所在地である現在地に移転され村社熊野神社と合祀して、社名を槻神社と称しその后、大正四年十一月大正天皇御大礼の砌、記念事業として本殿並に拝殿を改め改築、その後[ママ]更に再々の改築、改修を経て現在に及ぶ。
一、御神徳
古来、至誠神に通ずると申されている如く真に赤心を持つ事により神霊はそこに降臨されるものである。
花祭りの折、一力、添花等、各種の立願果[ママ]きに見られる如く念願成就の神として、世に広く信仰を集めている。
また日常生活の守護神として、特に交通安全や家内安全、開運除災など、幾多霊験奇跡を有し、氏子はもとより近年は遠離地よりの崇敬者も極めて多い。
一、祭 典
例祭 四月第一日曜日(元四月七日)
歳旦祭 一月一日
御神楽祭 春旧正月一日、秋十一月中旬(元二十八日)
花祭 十一月二十二日~二十三日
祖霊祭 九月彼岸日
境内坪数 一、四一七坪(約四、六八四平方メートル)
槻神社の主祭神は「瀬織津姫命」で、この神社はもともと「大字月字引田十一番地に鎮座」していたとあります。旧鎮座地近くでの聞き取りによれば、ここには槻(ケヤキ)の大木(神木)がかつてあったといいます。また、その根元からは、良質の清水が湧き出していたが、この神木を伐採したあと水も枯れてしまったとのことです。
由緒によれば、槻神=瀬織津姫命の祭祀は、「古来月部落の産土神であると共に且また東栄町内東部々落一円の崇敬社としてかなり隆盛を極めた時あるも、その後、時代の変遷と共に月部落の産土神としての特色を持ち氏子よりひたすら崇敬されていた」とされます。山深い奥三河の地で、この神はとても大切に信奉されていたようです。
現在は、「月部落の産土神」として限定されるものの、氏子衆による「崇敬」の気持ちが変わっていないことは、月集落でおこなわれる花祭り(新暦十一月二十二日~二十三日)をみてもわかります。
公民館に設けられた花祭り会場の神座[かんざ]正面には、集落の氏神である槻神が勧請され(写真右)、二日間にわたって(夜を徹して)、氏子衆から花祭り(の舞い)の奉納を受けることになります。
槻神社は御殿山の中腹に鎮座していて、そこまで参拝する人はそう多くないようで、この花祭り当日は、槻の神様にとって、もっとも近くに氏子衆と接することができる機会かもしれません。
ところで、この花祭りの「花」についてですが、これが何を意味するのかは定説がないようです。
したがって、以下は「私見」ということになりますが、花祭りの「花」について、少しおもうところを記しておきます。
花祭りには、神が「鬼」の姿となって現れ舞いを繰り広げ、神座の前にしつらえられた舞庭[まいど]の中心に据えられた湯釜の湯を周囲の観客にふりかけるという所作が、祭りの一つのクライマックスを構成しています。これは、無病息災あるいは疫病魔退散を願ってのものとおもわれます。
また、一般観客が立ち会うことは禁じられているのですが、花祭りの前段階の神事に「滝祓い」があり、祭りは、実質、この神事からはじまるといっても過言ではありません。この神事によって汲まれた「滝水」が、湯釜の湯の元となる「神水」です。
水は火によって「湯」となります。花祭り同系の霜月神楽などには、最初に呼び出される神として、水王様[みーのうさま]・火王様[ひーのうさま]といった名もみられますが、ここに水火神への尊意を読み取ることは可能かもしれません。
ともかく、この水火和合の「湯」を、神が鬼の姿となって観客(古くは村人でしょう)にふりかけるわけです。このときの湯釜の湯はぐつぐつと煮えたぎっていて、しかも寒い季節ですから、湯煙は相当なものです。この煮えたぎる湯に、鬼が手にもった枝の葉(たしか笹の葉)を浸して、人々に適度に冷めた湯をふりかけるときも、もうもうとした湯煙が会場に充満します。
人々は逃げまどいますが、この湯を振りかけられることをほんとうは期待してもいるようです。舞庭に立ち上る湯煙、ふりかけられる湯の煙を、少し距離をおいてみていますと、会場に、あるいは花祭りのクライマックスに、「祓い」の利益[りやく]を秘めた湯の「花」が咲き乱れているなというのがわたしの印象でした。
祓いの神事は神社・神官の独占するところですが、花祭りの運営主体はかつては修験者、現在は氏人(村人)で、奥三河の花祭りは、一般的な神社世界の「祓い」の神事に封印された神々(水火神)をここで解放し、これらの神と一体となろうとする、村人の「歓喜」の感情をもまた「花」と呼称したフシがあります。
月集落の花祭りの場合、会場の「祓い」にまつわる「歓喜」を、神座正面でながめているのが、その当の祓いの大元神(祓戸大神)・滝神であるというのが特異です。会場に特別ゲストとして迎えられた槻の神様は、おそらく、この氏人・村人の歓喜・祝祭の光景をうれしくおもってみているのではとおもわれたのでした。
尾張国一ノ宮・真清田[ますみだ]神社(愛知県一宮市真清田)は天火明命をまつる、尾張氏ゆかりの社というのが一般的な認識だとおもいます。「真清田神社御由緒」という無料案内には、「御創祀神武天皇三十三年」とうたっていて、こういった表示が意味することは、垂仁時代に創祀されたとされる伊勢神宮よりも真清田神社のほうが古く、由緒があることを暗に主張していると理解できます。
同案内の境内図をみると、本殿の真裏らしきところに三明[さんみょう]神社という「本宮荒魂」をまつる社があります。神職の談によると、内宮・荒祭宮に準ずる神とのことです。女神さんですねと念をおすように尋ねるとにっこり顔で「そうです」とのことです。熱田神宮の禁足地には「天照大神荒魂」をまつる一之御前神社が秘祭され、尾張氏は、天火明命のほかに、神宮祭祀枢要の神を秘かにまつることに共通性があるようです。
この三明神社の写真撮影を願いでると「どうぞ」とのことで、門の鍵をあけ、敷地内へ案内していただきました。小さな社殿ですが、たしかに本殿真裏に、とても大切にまつられています。
田中卓監修『真清田神社史』(平成六年)から、三明神社の関連記事を拾ってみます。
近世初頭の真清田神社境内社に「祓除殿社」があります。同社の説明は、「楼門内側の西方に東面する。祓殿神の瀬織津姫・速秋津彦・速秋津姫・速佐須良比売[ママ]・本宮荒魂の五柱を祀る。古くは八十八末社の一つ」という記述が眼にとまります。
三明神(本宮荒魂)は瀬織津姫たちと並んで「祓殿神」とみなされていたようです。また、「三月三日の桃花祭の祭礼車もこの社(祓除殿社)の前にて祓殿囃を行ふ慣例であつた。大正元年十月二十二日に愛鷹社に合祀した」と書かれ、桃花祭という真清田神社の最重要な祭礼時には「祓殿囃を行ふ」というように、真清田神から厚い礼を尽くされるのが「祓除殿社」であったことがわかります。
佐分清円『真清探桃集』(享保十八年〔一七三三〕)に記載とのことですが、ここには三明神社は「三明神宮」、真清田神社の「第一別宮」とされ(現在は摂社)、別格祭祀がなされていたことがわかります。『真清田神社史』の記述を読んでみます。
三明神宮(第一別宮)
当社は別名、「印珠宮」「三明印珠宮」とも称され、三種の印珠を秘蔵することに由来するといふ。四所別宮の中で最も重視されて別宮の第一とされた。祭神は本宮の荒魂であり、古来、神官林三之権が担当した(『真清探桃集』巻二)。三月三日の桃花祭には二台の山車が出されたが、東車は本宮の車であるのに対して、西車は三明神の車とされ、この車の方が先頭をきるのが古来の慣しであつた。
室町時代の『真清田神社古絵図』によれば、この社は本宮の西側、西神宮寺の北に描かれる宝形造の寺院風の建物であるといふ。この社殿も享徳四年(康生元年、一四五五)の火災によつて焼失したらしい。江戸時代の本宮正遷座の行列には、本宮と並んで三明神の御正体も遷御になつてをり、いつしか本宮の中に御正体が祀られるに至つたらしい。『古代建物調書指出』(明治十八年八月)によれば、「三明神又ハ印珠宮ト云。地蔵寺第四世成海法印、本宮之内陣ニ遷座ス。永享八十一月沙門成海ト書付置。」とあり、その遷座は永享八年(一四三六)十一月に地蔵寺の成海法印によつて執り行はれたものと推測される。この三明神の遷座が地蔵寺の僧侶によつて行はれたことは、同社が地蔵寺・般若院の管理下にあつたとも解せられるもので、注意する必要があらう。江戸時代には拝殿の西側で北より三番目に祀られ、独立した社殿を有してゐたが、大正元年に末社犬飼社に合祀されるに至つた。由緒のある当社は平成五年三月に再建された。
祓殿神・本宮荒魂とみなされていた三明神の祭祀には変遷があったことがよく伝わってきます。しかし、真清田本宮神(天火明命)と同格祭祀がなされていたことは、「三月三日の桃花祭には二台の山車が出されたが、東車は本宮の車であるのに対して、西車は三明神の車とされ、この車の方が先頭をきるのが古来の慣しであつた」、「江戸時代の本宮正遷座の行列には、本宮と並んで三明神の御正体も遷御」という記述によく表れています。
桃花祭は、真清田神が当地にまつられたのが三月三日であるとされ、真清田神社の最重要な例大祭とされます(現在は四月三日)。三月三日という桃の節句は、「人々は三月三日に桃の木で身を祓ひ、それを川(木曽川)に流してゐた」とされるように、その初源は祓いの神事で、真清田神・三明神がいかに「祓い」と縁故深い神であるかがわかります。
真清田神社の神仏混淆時代、同社境内には二つの神宮寺(東神宮寺・西神宮寺)がありました。東神宮寺は真清田神社「本宮」に対応するも、本尊は東西神宮寺とも阿弥陀如来、脇に地蔵尊と観音を配していたとされます。室町時代の社殿配置、つまり「この社(三明神社)は本宮の西側、西神宮寺の北に描かれる宝形造の寺院風の建物」とされる『真清田神社古絵図』の記録は貴重です。また、地蔵寺の存在が示唆していますが、三明神の本地仏は阿弥陀如来でもあったものの、どうやら地蔵尊ともみなされていたと考えられます。
『真清田神社史』は、「なほ三明神と称される社が当社の近くの丹羽郡・中島郡等に集中して分布してゐることとの関係は十分注意する必要があらう」とも付記しています。
三明神に関する短い説明のなかに「注意する必要があらう」という文言が二つみられます。『社史』は「注意」の具体的内容を詳細に語りませんが、丹羽郡・中島郡等への集中分布に関する「注意」は、祓殿神・本宮荒魂とみなされていた三明神の祭祀ではあるものの、当地域(丹羽郡・中島郡等)において、むしろ真清田本宮神よりも広く(深く)信仰されていたことを示すことへの注意喚起と読めます。『尾張国神名帳』には、「正一位」の神階をもつのは真清田大明神・大縣大明神・三明神大明神・熱田皇太神宮・八剱明神の五神とあります。この「三明神大明神」は尾張国二之宮・大縣神社の別宮とされる三明神のことですが、いずれにしても、真清田神や熱田神と並ぶ正一位という極位の神階にあったのが三明神でした。
もう一つの「注意」は、神仏混淆に関するものとみられます。『真清田神社史』も指摘していることですが、当社の神仏混淆は平安時代初期、天台宗によってはじまります。これは、境内に天台宗ゆかりの「常行堂」があったことに端的に表れています。天台宗における「祓殿神」の本地仏について、比叡山「回峰手文」(村山修一編『比叡山と天台仏教の研究』所収)に「祓戸神本地弁才天或地蔵或釈迦」とあり、神仏混淆の天台宗的方法が真清田神社の三明神(祓殿神)の本地仏・地蔵尊に反映していることがわかります。室町期にまとめられた『神道集』にも「尾張国一宮、真清田大明神是也。本地々蔵也」とあり、三明神こそが「真清田大明神」であった可能性もあるようです。
真清田神とはなにかという問いもあらためて喚起されるところです。『真清田神社史』によれば、真清田神を天火明命(天照国照火明命)とするのは明治以降のことで、その前はというと「ほぼ中世に大己貴命、ほぼ近世には国常立尊とする説が強かつた」とされます。『社史』は、『諸社根元記』所引の『諸国一宮神名帳』には「伊射波神社 号真清田大明神、大己貴命也俗国玉ノ社ト云ハ是也 尾張国中嶋郡」とあり、神宮文庫所蔵の『大日本国一宮記』には「伊射波神社 真清田大明神此也、大己貴命 志摩国答志郡」と、これも貴重な記録を再録しています。
内宮別宮・伊雑宮の「伊雑[いぞう/いざわ]」は「伊佐波」「伊射波」からきたもので、志摩国一ノ宮・伊射波神社(鳥羽市安楽島町字加布良古)は伊雑宮の元社とみられます。伊射波神社の主祭神は、多紀理比売、配祀神は多岐津姫、狭依姫、つまりスサノオとアマテラスの「誓約三女神」がここにまつられています。加布良古[かぶらこ]崎に鎮座するこの伊射波神は、志摩大明神、加布良古さんと、地元の海の民に今でも親しく呼ばれています。江戸期に伊雑宮の祭神として伊射波登美命の名がみられますが、伊射波神=伊雑神がもともと宗像神でもあったことをよく伝えているのが伊射波神社です。
この伊射波神=伊雑神と真清田神が同神とみられていたというのは、示唆することあまりに大きいといえます。
伊雑宮と関わりある「祓殿神」ならば、これは祓戸三女神化される前の瀬織津姫神とみるしかありません。その「祓殿神」が「真清田大明神」と呼称されていることはとても重要です。真清田神社において、本宮神(天火明命)と三明神(本宮荒魂神)は、東西神宮寺の存在や「本宮正遷座の行列には、本宮と並んで三明神の御正体も遷御」とあったように、一対の関係祭祀がなされていました。これは、伊雑宮や神宮の基層祭祀の姿でもありました。
室町時代後半期に成立したとされる『真清田神社縁起』の「一年中神事記」には、六月と十二月に「千度祓」(中臣祓を千度くりかえし唱える)という大祓の重神事が記されています。近世の真清田神は国常立尊、中世は大己貴命とされるも、その前については「平安時代初期の承和十四年(八四七)までは、真清田神社についての確かな史料は皆無」とのことで、神社側の文書記録に具体的な祭神名は確認できません。しかし、社に継続・伝統化された神事・祭礼や本地垂迹の関係をみるかぎり、真清田神の性格が「祓神」とみなされていたことだけは色濃く伝えられています。
古縁起(『真清田神社縁起』)には、文武天皇時代に義淵が勅命によって来社・祈祷をし、桓武天皇時代には同じく勅命による最澄の来社があり、そして嵯峨天皇時代には空海がやってきて雨乞い祈祷をし「霊雨」を降らせたことが記録されています。
文武天皇(持統太上天皇)時代に祭神の曖昧化がすでにはじまっていたことも考えられますが、より決定的なのは、平安期初頭、天台宗の関係者(最澄に象徴される)が真清田神社へ下向して、おそらく勅命の名のもとに真清田大神(の女神)を、いかにも仏教的神名である「三名神」という「祓殿神」と呼称したことでしょうか。以後、三名神は社内で流浪的に変遷祭祀がなされるも、現在は、天火明命(本殿)背後の最重要な場所に復興祭祀がなされているといえそうです。
今後の予定
1. 原生林と設楽「食」フェスツア:8月1日(日)
2. 豊橋路上観察会=豊橋の街並みから昭和はじめ近現代史を探る
3. 豊橋軍事施設見学会=豊橋公園はじめ愛大と高師周辺
4. 奥三河の森の現状を知るツア(津具の森など)=外国人とともに
*これらのツアは、継続してくためのきっかけツアで、これに座学を加えた学習塾になればと考えています。
連絡先)黒田芳嗣
住所:〒441-8053 豊橋市柱二番町225
携帯)090-3593-4214
メール)l46hurh8@na.commufa.jp
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