2010年8月11日水曜日

8月のFM豊橋「黒板東三河」メモ

日記だからまめに書かなくてはいけないのだけれど。この暑さ、原稿に向かう気がしなくて。それに、パソコンが言うことをきかなくて。ところで、僕の友人、トランブレーみゆきさんのブログ、ハイスピードで、それも、西日本全域の霊山を駆け巡っているさま、すごいね。迫力満点。その友達である、クロさんの元気のなさ。なさけなくなっている、今日この頃です。
さて、今月のFM豊橋の「黒板東三河」。第1週は、中西先生のお話で終わっていますが、今週は旭校区のお話で、旭校区にある陸軍墓地の話をしようと思っている。メモ書きだけれど、今月の話のあらすじを紹介しているので、確認してみてください。

第1週(6日:東三河発の書籍紹介)
・今月は、中西正さんの「自然を友に――街、自然、そして環境」を取り上げたい。今日は、お暑い中、中西さんご本人をお呼びして、本のことと自然についてお話を聞こうということです。中西先生のプロフィールは、後ろに掲載されているとおりで、三河生物同好会の一員で、県の自然観察指導員でもあります。クロさんとの出会いは、このFMで毎火曜日、ハミングの佐々木さん(設楽の木材共同組合)と、昨年、山林に親しむためのワークショップをやろうということで、モンキーセンターの高野先生、それに、鳳来寺の自然科学博物館の加藤館長、それと、前月この番組に呼んだ鉄砲撃ちの牧野君などを講師人に選んだときに、加藤先生が都合が悪く、中西先生を紹介してくれた。その当時・は、田原の成章高にいらっしゃって、現在は豊橋西高にいらっしゃる。渡邊さんも生物好きということで、話も弾むのでは。
著書のあらすじは、1,2部構成で、1部は街路樹や都市部の動物などに触れる話、2部は先生が利尻、小笠原からボルネオなどいろんなところに出かけられた調査旅行記ですが、書き出しが、フランスのアルザスのストラスブルグやコルマールが出てきて、懐かしい思いがした。というのも、長いこと広報の仕事をしていた桜美林大の名前の由来がフレデリックオベリンで、アメリカのオベリン大の由来の人物でもあり、そのオベリンの故郷がアルザス。クロさんも、桜美林の職員旅行に便乗して、家族で訪ねたことがあり、懐かしい思いをしました。アルザスは、フランス、ドイツと入れ替わり国が変わる。ドイツのもみの森、黒い森とも近いところで、しかも、スイスとも近いのですが、それぞれ環境が違っている。また、アルザスの中心地で世界遺産の街、ストラスブルグでは大聖堂、周辺のぶどう畑の中にあったシュバイツアの生誕地、そして、欧州の駅はこんなふうなんだというコルマールの駅など、印象深いところでした。コルマールからはTGBでパリに出たのですが、フランスが改めて、農村だという認識を新にしました。出しなに、つまらない思いで話をしてしまい、すいませんでした。
(中西先生の話)

第2週(13日:ぶらり校区「旭校区」)
 ・今日からお盆、みなさんのお盆の過ごし方、どんなふうなんですかね。今日はお迎えの日で、玄関で精霊、ご先祖様の霊をお迎えし、家族と一緒に過ごすわけですが、同時に、この翌々日は、終戦の日でもあるわけで、この旭校区には、終戦の日にふさわしい、あるいは、お盆にふさわしい施設があります。陸軍墓地です。豊橋東に通っていたけれど、その話など、ついぞ、聞いたことがないし、交友たちからも聞いたことがない施設。僕らの世代は、戦後はまだ終わっていない時期だったのか、当時の先生たちは触れていない。というより、地域の歴史など記憶にないほど、勉強の中では小さな事だったと思う。
40数年後、豊橋に住むようになり、豊橋ユネスコの中で、戦跡や残存軍事施設などを調べていくうちに、この陸軍墓地にであった。この墓地はなんなのである。豊橋公園は、18歩兵連隊のあとで、豊橋ユネスコのメンバーが残存関連遺跡の案内パンフづくりに取り掛かっているが、あわせて、この陸軍墓地についても、しっかりした案内と豊橋の近現代史を教える教材としても、調査研究してもらいたい。
この墓地は、「校区のあゆみ」によれば、西南戦争の戦没者はじめ、日清、日露を経て、太平洋戦争までの戦没者を慰霊する墓地ではあるが、このことを語ることは日本の戦前の歴史を語ることでもあり、いい加減では済まされない。だからといって、この土地は誰のものという、現実問題となると、こちらも複雑である。土地は豊橋公園と同じで、国のもの。もともと陸軍のものだから、現在は、財務省が所有。使用目的は、墓地、それ以外は使用できないと、市と契約をかわしており、市の管理下にある。ということは、市の共同墓地と同じ扱いか、というとそうでもないらしい。なぜなら、ここは、あくまで陸軍墓地。しかし、現在、陸軍はない。現実と歴史、ないまぜとなって存在する戦前の遺跡群をどう扱うのか、見せてもらいたい、市の文化財の扱い方を。

第3週(20日:クロさんの交友録)
 ・本来なら、この週が校区の週ですが、13日の盆入と終戦の日を前にしており、陸軍墓地を前にやり、その後、クロさんのユネスコ仲間で、今、豊橋公園の不思議な18連隊の残存遺跡物の案内パンフづくりをしているお姉さんたちを紹介します。彦坂さん、渡辺さん、大場さんと今日は来られないけれど、神野さん。発端は、クロさんが、公園内に訳がわからない、台座があるけれど、あれは何、から始まった。前週、陸軍墓地の話をしたけれど、公園内にも18連隊の残存遺跡が残っていて、今、これなーに対し解答を出しておかないと、それこそ、わからないものがそのままになってしまい、クロさんが言うように、粗大ごみなら片付けて欲しい、という人も出てくる。これらの残存物、じつは所有者が明確ではない。とりあえず、それらにネームを付ける仕事をやってはいるが、これは、公園内のことであり、市はきちんと解答を出すべきで、それがないと、これらのものに、プレートひとつ付けられない。そういう前提で、今、みなさんがどんな思い出活動をしているか、話してもらいたい。
・もう一つ、11月6,7日、豊橋ユネスコが音頭取りで、東海6県、21のユネスコ協会加盟の団体が集まり、全国組織のユネスコ協会が掲げている、地域遺産/未来遺産、寺子屋運動支援、ユネスコスクール、青少年育成などをテーマに、交流を深める。この会議には、会員以外のメンバーも参加できます(費用は若干かかりますが)。まもなく、要項も、チラシも揃います、その時、改めて、お話します。クロさん、その実行委の事務方をやっていますので。

第4週(27日:クロさんのプロフィール続き)
 ・クロさんのプロフィールの中心は大学。今、ユネスコの活動をやりつつ、「そう」にも書かせてもらっているけれど、そのもとになる考え方などは、地元の大学から仕入れたものも多く、地域の問題解決などには大学は外せない。しかし、そのためには、大学に対する市民目線の見方と何を大学に期待し、協調歩調出来るか、を考えておく必要がある。その意味で、クロさんの大学に対する見方がどうだったかを、また、誰から影響を受けたかなどを、見ていく必要があると思い、くだくだとプロフィールを紹介しているわけ。 
・大学とのつながりは、やはり、大学新聞からだろうと思う。先々週だったか、安間さんが、全学連の話をしていたけれど、当時は、全学連もいくつかにわかれていた。クロさんの東洋も、様々な組織があり、一つではなかったけれど、大学と話し合う(と言っても、学生側の一方的な論理で進めていたけれど)時は、結構、まとまっていた。大学とは、なんて、糞真面目に討論していた。
だから、小さな編集プロダクションが、日大という、化物みたいな巨大な大学を相手にするわけだから、かなり、ビビった。学生時代は、どちらかと言えば、大学と対立していた20代前半の若造が、日大の広報、それも、教職員相手の広報を創刊から携わる訳だから。ここに、日大広報の縮刷版があるけれど、よくやったと思う。教職員だけで、5000人いるわけで、それも、法学部から医歯系まで14学部あり、その教員と話ができなければ、記事ひとつ書けないし。ただ、当時の日大は、言葉は悪いが、ポン大と言われ、かなり馬鹿にされていた。しかし、日大闘争で、東大と並び称されるまで、頑張ったと思う。そのことが、ポン大から日本大学へ変わる。また、事務方がOB陣で固められていたようなところがあったのを、外部の血を入れることで、風通しを良くした。日大闘争後の10年は、古い日大からの脱皮時期だったように思うし、その時期に、広報をやったのだから、大学内部と同じ考えで動き始めたように思う。今、FDやSDなど、大学の機構改革の目玉のようなことが言われているけれど、
この時代に、日大では実施されていた。教職員は車の両輪だって。40年も前に、言い切っていたことを、考えると、クロさんの大学への考え方のスターとはこのへんにあったように思う。







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