・クロさんのプロフィールをもう少し、紹介したい。
大学との付き合いが一番長いものだから、4月と5月、市民と大学との関係を話してきたけれど、それも含めて、プロフィールを話してみたい。
(資料添付で)
・まずは、高校でのいなかもんが東京に行った1969年、それまで、東京なんて、中学の修学旅行で一度いったきりだから、カルチャーショックは相当なものだった。
大学は、巣鴨(ジジババの原宿)から、当時は、都電(こちらの市電)で白山下まで乗り出かけた。新聞やりたくて、入学式の当日、部室を訪ね、即入会。高校時代、新聞部にいたから、多少はかけると思ったが、どっこいそうは行かなかった。1年の時は、先輩編集長(これが、文学界だったかの新人賞の佳作をとった方で、しかも、学生時代に女性自身に転出、その後、いくつかの時期に、付き合いがあるのだけれど)に、徹底的にしごかれる。
とにかく、5行見るだけで、破られる。新聞というのは、真っ白のところに、記事の重要性を考え、レイアウトしていくわけで、自由度はあるのだが、その自由をどう切り盛りしていくかが難しい。雑誌の場合、枠が小さいから、それなりに制約もあり、そんなにむつかしくない。新聞のレイアウトができれば、雑誌はこなせる。内容は別にして。逆はできない。雑誌から、新聞はなかなかできない。というわけで、実務は、1ヶ月に2回発行だから、印刷所に入れる時は、完徹。午前3時頃、やっと1っぽんが認められ、と言っても、先輩整理マンがボツにすれば、それは掲載されない。
一方、新聞以外では、デモというのを初体験。とにかく、よく歩いた。山手線半周なんて当たり前だった、ワケも分からず、ついていくだけ。その後、先輩が新宿のジャズ喫茶(当時のジャズ喫茶は、豊橋でいうと、グロッタ、あそこのマスターの小林さん、法政のジャズ研の部長で、その後、知りあうのだけれど)に連れられ、マイルスやモンク、ロリンズといったレコードを聞かされ、これが都会なんだという、カルチャーショックを受けた。
・2年以後は、大学はある意味悪い時代(授業は消えた)だが、当時は、良かったのかもしれない。1970年、大学はストにロックアウト、正常に動かなかった、で、自分たちで勉強しあう、他の大学の連中もよく来ていた、それに、今は、有名評論家も学生新聞に書いていた。そんな、付き合いの先輩が、此の本、芸術国家論集、ここで書いている田中基、中村宏などが、僕のその後の歩みを決めた人たち。
・中村さんは、豊川の画家の近藤さん(国府高で絵を教えていた)と仲間で、ちょうど、僕が下宿していた西武線江古田(日大芸術学部のあるところ)に住んでいて、近くなものだから、よく遊びに行っていた。学生新聞の企画はすべて中村先生との話で、決めていた。
もう一人は、田中さん。今は、八ヶ岳の麓に住んでいて、少し前までは、諏訪のことにものすごく詳しくて、中沢新一さんと今、多摩美で図像学を教えている。今、僕が、この三河の神様なんかに興味を持っているのも田中さんのおかげ。
早稲田で一緒していた2人だけれど、もう一人、門倉さんがいるけれど、中村さん意外は早稲田の人で、その後輩に、今、精文館の2階に行けばすぐに分かる、松岡さんがいて、その松岡さんに拾われる。MACという会社。そこの、新聞のハイスクールライフの編集の手伝いで、社会人になるわけ。1年ほどだったけれど、学生新聞よりさらに、密度は濃かった。しかし、原稿書きのいろはは、その後、女性自身、アサヒ芸能の記者になっていった大学の先輩に学んだことが、生きていた。
・松岡さんは、1年後、会社を退職し、遊という雑誌を作り始め、それこそ、何でもありの世界を作り上げていく。ついていける訳ない。しかし、当時、その松岡さんが一目おいたのが中村さんの芸国のメンバーだから。だから、今も、その先輩たちの話には、信を置いているし、一語一語が怖い。
・僕は、ひとり残され、途方に暮れているとき、日大の仕事が入ってくる。23歳で、あの日大の教職員向けの広報の創刊に携わる、いいのか、悪いのか。学生新聞をやっていたなんて、これッポッチも話さなかった。向こうは知っていたかもしれないけれど。まだまだ、学生運動の残りがあった時代だし、知れたらどうしようと思っていた。
・広報といえば、トップの話も聞かされるし、あれだけ大きな大学、5000人の職員、名簿だけでも1冊の雑誌並だし、とにかく、何を焦点にすれば良いのか、まずは、人物調べ。大学の話になるけれど、大学を構成している人ってわかるかな?
・学生新聞の取材がこのとき役に立ったと思う。とにかく、名簿と専門分野、それに、素人知識をもとに、無謀にも、訪ねていく。話を聞く、まとめる。その連続で、5年かかった。15学部あるなかのきいマンを作り、その先生のもとに足しげく通い、情報をもらう。執筆をお願いすることで、その先生の知識をもらう、いわば、聴き学問。これも、いま、こうして話している内容の原点が、ここにある。
・もう一つ、これが、僕なりのSD。職員の自己改革をそう呼び、教員の自己改革をFDと呼ぶ。そういう言葉が使われ始めたのは、もっとあとになってからだけれど。
・そんなことが、あって13年、日大でお世話になった。
・日大で学んだことに、黒田先生との出会い、池田さんとの出会い、山田顕義との出会いがある。
・黒田先生は厚生省人口問題研究所所長を長く務められた先生で、学者肌で、国際肌で、当時、若造の僕を可愛がってくれ、生涯面倒を見ていただきました。僕は、胃がんでしたが、先生のおかげで、日大病院にもスムーズに入れましたし、手術も最高のスタッフでした。そんな、気さくな先生から学んだことは、学際というもの、総合的な学問への取り組みです。また、大学内の研究所のあり方や国際会議の進め方など、身近で学びましたから、本当に勉強になりました。そのころ、国連の人口活動基金の総裁をしていらしたサラスさんの翻訳本を最初から出版まで手掛け、ある種の本作の手ほどきを受けました。また、人口問題、今の、高齢社会などの話は、黒田先生からよく聞かされたものです。
・池田さんとは、植村さんと日大隊が北極を目指していた頃のお付き合いでした。偶然ですが、マサキの会長さんが池田さんをよくご存知で、びっくりしました。高齢者の登山、日本山岳会という登山家の集まりの会ですが、これには、この放送でも紹介した中尾さんも京大の学士山岳会との関係でもつながりがある。その池田さんからは、遠征隊の報告書づくりで学ばせてもらった。北極に日大のほとんどの学部から参加、歯医者はイヌイットの歯の検診、医学部からは、高山医療の先生が入り、寒いところの医療研究など、また、隊員のひとりが、基地のあったグリーンランドのエルズメア(この地には、先遣で入っていた日大の方が当地で地元のイヌイットと結婚された方がいた)で、英和辞典をもとにしたイヌイット語辞書も作った。池田さんは、出発地点のカナダの海岸で拾った貝の化石を東大に持ち込み、後に、新しい貝の化石であることがわかり、池田の名前がついたなど、面白い成果が、報告書に掲載された。日大ならではの、成果だったけれど、マサキさんと結びつくとは、本当にびっくり。
・山田顕義は日大の創始者。明治の元勲で、本来なら、NHKの大河ドラマの主人公になっても良い人物。龍馬伝がもてはやされているが、同時代の人で、吉田松陰の門下生のひとり。とにかく、幕末から明治にかけて、修羅場をくぐり抜け、幕府はもとより、西南戦争にいたるまで、いわば、当時の戦闘場面で活躍をした人。その一方、日大の前身である日本法律学校をつくりあげ、政治の舞台では、司法大臣も務める。この人物像を歴史の中に位置づける、愛大でいえば、本間先生を歴史の中に位置づける、この作業のしょっぱなに
関係した。大学と僕の関係のひとつの原点みたいなもの。後に、桜美林で大学博物館づくりに出くわすわけだが、特に、私学の理念は創業者の思いが強く、理念、設立趣意書文と使命をよく読み解く必要があり、それを現代に置き換え、何をなすべきか考える。山田顕義の伝記を扱うことから、学んだ。
・1980年代は、会社勤めから独立へ。仕事も日大から桜美林大。その他、不動産関連の読売住宅案内、コムシスの社内報、日本生協連の宣伝媒材、霊園の広告、こんにゃく新聞制作の手伝い、などいろんなものを作っていた。全国を廻っていたのもこのころで、初めての海外もこの時期に体験。バンコックへの出張,コムシスで。
・その一方、マンションでは、自治会役員に関わり、毎月の行事を立案、実行していた。40代になると、自治会から管理組合の役員も引き受け、マンション管理についてもかなり勉強したし、行政との関わりも学んだ。一番、充実していたとこかも知れない。
・JCC退社後、3人の仲間と印刷会社との共同事業として、編集、デザイン、企画会社として「創作社」を創設するも、桜美林大学以外は仕事もなく、アップアップの出だしであった。
・1年後、リクルート「住宅情報」に対抗した読売新聞社発行の週刊「読売住宅案内」の創刊業務の仕事が入り、当初は校正請負の仕事であったが、故あって、ライター部門に転換。黒田も加わった5人ほどのライターで原稿仕上げからゲラチェックまで行う作業を週25本(1本2P仕上げ)こなす。黒田は主に住友不動産関係を担当、千葉八街から野田、埼玉川越、神奈川大岡山までカバーした。
・しかし、「読売住宅案内」は3年で廃刊。その後、不動産関係のパンフやリーフレット、ちらし制作、大多摩霊園の新聞広告制作、故郷の会社案内などをこなすかたわら、広告代理店国連社の依頼により日本コムシスの社内報の取材(約20P、月刊)を3年ほど、生協事業連合の外部向け機関誌「COOP」の取材(約20P、月刊)を1年、業界紙「蒟蒻新聞」の編集など逐次携わる。
・また、この間においても、「桜美林だより」の編集、発行業務は継続し、さらに、同大の学生部の依頼により「学生生活ガイド」の創刊に携わる。
1993年~2000年ごろ
・40代後半は、今度は、会社もやめ、個人で仕事、と言っても、桜美林大だけで、なんとかやっていけるめどをもって、10年ほど頑張る。その間、胃がんを煩い、胃を全摘。しかし、ひとりなものだから、退院後、数日間で現場復帰。車の運転免許を47歳でとっておいて助かった。とにかく、埼玉から町田の桜美林まで往復5時間はかかるから。都内通過はなかなか厳しいです。
・桜美林オンリーでは、沖縄にかなり、頻繁にいった。年2回は必ず。そこで、沖縄のこともべんきょうさせてもらった。いまも、先生であり、友人としてもお付き合いしている吉田先生。先だって、福島社民党党首が普天間問題で手渡した本の著者。それと、文化人類学で鯨の先生、大学博物館と国際理解教育運動(今の、僕のユネスコ活動の指南役の面々はこの仲間や先生たち。
・山田顕義、清水安三、東亜同文書院のつながりも、中国との関心も、清水安三研究プロジェクトからきている。
・創作社は代表逝去で移設。黒田は移設前に退社し、個人事業として黒田企画を立ち上げ、2000年ごろまで先の「桜美林大学だより」「学生生活ガイド」ほか、「桜美林大学だより」縮刷版(1号~100号)、同「索引集」、「桜美林学園創立45(後50)周年記念誌「史料集」(1号~7号)、同合本企画(青焼き段階で中止)、「ヴォランティア報告集」(1号~3号)、「草の根国際理解教育支援プロジェクト報告集」「桜美林フォーラム」「清水安三の思想と教育実践(ワークショップ報告集)」などの制作物を作り上げてきた。
・この間、数年にわたって滝沢新聞印刷の依頼により信越化学の社内報の編集(B5版、12P)や信越化学鹿島工場30年誌の編
・桜美林大学では、その後、清水安三記念プロジェクトの一員としてワークショップの報告集や大学の自己点検報告書の編集などに携わるが、故あって桜美林大学の仕事から退くことになる。ただし、清水安三プロジェクトには現在も参画し、調査などお手伝いを続けている。
・編集関連の仕事から、警備の仕事に移り、主には大宮駅の新幹線関連で警備業務に携わる。
・今から、5年ほど前、付き合いのあった豊橋創造大から短大の自己点検報告書の制作にかかわってほしいとの依頼に応じ、住み慣れた埼玉を離れ、郷里の豊川に戻り、創造大の自己点検報告書の制作に関与する。また、愛大の教務にも派遣で仕事に携わる。
・創造大の仕事も切れ、その後は、日本通運関連で宅配の仕事を半年、さらに、現在は郵便事業会社とホームヘルパーの仕事に従事している、かたわら、半ばヴォランティア活動として、ユネスコ協会や三河の応援団という位置づけで、ヒト、モノ、自然と多方面に問題意識を持って、活動を続けている。
・その中で、一つの形になったものが「北京崇貞学園と桜美林学園の創立者・清水安三を語る」(愛大東亜同文書院記念センター)での講演である。
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