今日のFM豊橋の「黒板東三河」、時間が少し短く、東京に出てのカルチャーシ
ョックの話で、終わってしまった。
来月,4週目には、今日の続きを話そうかと思っている。来月は、祇園祭りのおはなしだ。
ところで、我友、トランブレーみゆきちゃんのブログ、すごいところにいっている。彼女、密教の教義について、僕にはあまり知らないと言っていたけれど、すごい勉強家。それに、加えて、とにかく、じっとしていない。体に、気をつけるようには言っているけれど、非現実世界の仲間の方の働きが強く、時に、じぶんがリアルな存在であることを、忘れてはいないとみゆきは言うかもしれないが、やはり、心配。
さて、8月1日、設楽の食フェスがあるので、それを絡めて、いくつかの神社巡りと設楽ダムサイト(予定)などを見てまわるツアを計画している。よかったら、メールか、携帯電話に参加の意思表示をしてみてください。
人数まとまるようでしたら、事前に少し、勉強会など、開いてみたい気もしている。チラシ、できたら、ブログに載せる。
2010年6月23日水曜日
2010年6月22日火曜日
・クロさんのプロフィールをもう少し、紹介したい。
大学との付き合いが一番長いものだから、4月と5月、市民と大学との関係を話してきたけれど、それも含めて、プロフィールを話してみたい。
(資料添付で)
・まずは、高校でのいなかもんが東京に行った1969年、それまで、東京なんて、中学の修学旅行で一度いったきりだから、カルチャーショックは相当なものだった。
大学は、巣鴨(ジジババの原宿)から、当時は、都電(こちらの市電)で白山下まで乗り出かけた。新聞やりたくて、入学式の当日、部室を訪ね、即入会。高校時代、新聞部にいたから、多少はかけると思ったが、どっこいそうは行かなかった。1年の時は、先輩編集長(これが、文学界だったかの新人賞の佳作をとった方で、しかも、学生時代に女性自身に転出、その後、いくつかの時期に、付き合いがあるのだけれど)に、徹底的にしごかれる。
とにかく、5行見るだけで、破られる。新聞というのは、真っ白のところに、記事の重要性を考え、レイアウトしていくわけで、自由度はあるのだが、その自由をどう切り盛りしていくかが難しい。雑誌の場合、枠が小さいから、それなりに制約もあり、そんなにむつかしくない。新聞のレイアウトができれば、雑誌はこなせる。内容は別にして。逆はできない。雑誌から、新聞はなかなかできない。というわけで、実務は、1ヶ月に2回発行だから、印刷所に入れる時は、完徹。午前3時頃、やっと1っぽんが認められ、と言っても、先輩整理マンがボツにすれば、それは掲載されない。
一方、新聞以外では、デモというのを初体験。とにかく、よく歩いた。山手線半周なんて当たり前だった、ワケも分からず、ついていくだけ。その後、先輩が新宿のジャズ喫茶(当時のジャズ喫茶は、豊橋でいうと、グロッタ、あそこのマスターの小林さん、法政のジャズ研の部長で、その後、知りあうのだけれど)に連れられ、マイルスやモンク、ロリンズといったレコードを聞かされ、これが都会なんだという、カルチャーショックを受けた。
・2年以後は、大学はある意味悪い時代(授業は消えた)だが、当時は、良かったのかもしれない。1970年、大学はストにロックアウト、正常に動かなかった、で、自分たちで勉強しあう、他の大学の連中もよく来ていた、それに、今は、有名評論家も学生新聞に書いていた。そんな、付き合いの先輩が、此の本、芸術国家論集、ここで書いている田中基、中村宏などが、僕のその後の歩みを決めた人たち。
・中村さんは、豊川の画家の近藤さん(国府高で絵を教えていた)と仲間で、ちょうど、僕が下宿していた西武線江古田(日大芸術学部のあるところ)に住んでいて、近くなものだから、よく遊びに行っていた。学生新聞の企画はすべて中村先生との話で、決めていた。
もう一人は、田中さん。今は、八ヶ岳の麓に住んでいて、少し前までは、諏訪のことにものすごく詳しくて、中沢新一さんと今、多摩美で図像学を教えている。今、僕が、この三河の神様なんかに興味を持っているのも田中さんのおかげ。
早稲田で一緒していた2人だけれど、もう一人、門倉さんがいるけれど、中村さん意外は早稲田の人で、その後輩に、今、精文館の2階に行けばすぐに分かる、松岡さんがいて、その松岡さんに拾われる。MACという会社。そこの、新聞のハイスクールライフの編集の手伝いで、社会人になるわけ。1年ほどだったけれど、学生新聞よりさらに、密度は濃かった。しかし、原稿書きのいろはは、その後、女性自身、アサヒ芸能の記者になっていった大学の先輩に学んだことが、生きていた。
・松岡さんは、1年後、会社を退職し、遊という雑誌を作り始め、それこそ、何でもありの世界を作り上げていく。ついていける訳ない。しかし、当時、その松岡さんが一目おいたのが中村さんの芸国のメンバーだから。だから、今も、その先輩たちの話には、信を置いているし、一語一語が怖い。
・僕は、ひとり残され、途方に暮れているとき、日大の仕事が入ってくる。23歳で、あの日大の教職員向けの広報の創刊に携わる、いいのか、悪いのか。学生新聞をやっていたなんて、これッポッチも話さなかった。向こうは知っていたかもしれないけれど。まだまだ、学生運動の残りがあった時代だし、知れたらどうしようと思っていた。
・広報といえば、トップの話も聞かされるし、あれだけ大きな大学、5000人の職員、名簿だけでも1冊の雑誌並だし、とにかく、何を焦点にすれば良いのか、まずは、人物調べ。大学の話になるけれど、大学を構成している人ってわかるかな?
・学生新聞の取材がこのとき役に立ったと思う。とにかく、名簿と専門分野、それに、素人知識をもとに、無謀にも、訪ねていく。話を聞く、まとめる。その連続で、5年かかった。15学部あるなかのきいマンを作り、その先生のもとに足しげく通い、情報をもらう。執筆をお願いすることで、その先生の知識をもらう、いわば、聴き学問。これも、いま、こうして話している内容の原点が、ここにある。
・もう一つ、これが、僕なりのSD。職員の自己改革をそう呼び、教員の自己改革をFDと呼ぶ。そういう言葉が使われ始めたのは、もっとあとになってからだけれど。
・そんなことが、あって13年、日大でお世話になった。
・日大で学んだことに、黒田先生との出会い、池田さんとの出会い、山田顕義との出会いがある。
・黒田先生は厚生省人口問題研究所所長を長く務められた先生で、学者肌で、国際肌で、当時、若造の僕を可愛がってくれ、生涯面倒を見ていただきました。僕は、胃がんでしたが、先生のおかげで、日大病院にもスムーズに入れましたし、手術も最高のスタッフでした。そんな、気さくな先生から学んだことは、学際というもの、総合的な学問への取り組みです。また、大学内の研究所のあり方や国際会議の進め方など、身近で学びましたから、本当に勉強になりました。そのころ、国連の人口活動基金の総裁をしていらしたサラスさんの翻訳本を最初から出版まで手掛け、ある種の本作の手ほどきを受けました。また、人口問題、今の、高齢社会などの話は、黒田先生からよく聞かされたものです。
・池田さんとは、植村さんと日大隊が北極を目指していた頃のお付き合いでした。偶然ですが、マサキの会長さんが池田さんをよくご存知で、びっくりしました。高齢者の登山、日本山岳会という登山家の集まりの会ですが、これには、この放送でも紹介した中尾さんも京大の学士山岳会との関係でもつながりがある。その池田さんからは、遠征隊の報告書づくりで学ばせてもらった。北極に日大のほとんどの学部から参加、歯医者はイヌイットの歯の検診、医学部からは、高山医療の先生が入り、寒いところの医療研究など、また、隊員のひとりが、基地のあったグリーンランドのエルズメア(この地には、先遣で入っていた日大の方が当地で地元のイヌイットと結婚された方がいた)で、英和辞典をもとにしたイヌイット語辞書も作った。池田さんは、出発地点のカナダの海岸で拾った貝の化石を東大に持ち込み、後に、新しい貝の化石であることがわかり、池田の名前がついたなど、面白い成果が、報告書に掲載された。日大ならではの、成果だったけれど、マサキさんと結びつくとは、本当にびっくり。
・山田顕義は日大の創始者。明治の元勲で、本来なら、NHKの大河ドラマの主人公になっても良い人物。龍馬伝がもてはやされているが、同時代の人で、吉田松陰の門下生のひとり。とにかく、幕末から明治にかけて、修羅場をくぐり抜け、幕府はもとより、西南戦争にいたるまで、いわば、当時の戦闘場面で活躍をした人。その一方、日大の前身である日本法律学校をつくりあげ、政治の舞台では、司法大臣も務める。この人物像を歴史の中に位置づける、愛大でいえば、本間先生を歴史の中に位置づける、この作業のしょっぱなに
関係した。大学と僕の関係のひとつの原点みたいなもの。後に、桜美林で大学博物館づくりに出くわすわけだが、特に、私学の理念は創業者の思いが強く、理念、設立趣意書文と使命をよく読み解く必要があり、それを現代に置き換え、何をなすべきか考える。山田顕義の伝記を扱うことから、学んだ。
・1980年代は、会社勤めから独立へ。仕事も日大から桜美林大。その他、不動産関連の読売住宅案内、コムシスの社内報、日本生協連の宣伝媒材、霊園の広告、こんにゃく新聞制作の手伝い、などいろんなものを作っていた。全国を廻っていたのもこのころで、初めての海外もこの時期に体験。バンコックへの出張,コムシスで。
・その一方、マンションでは、自治会役員に関わり、毎月の行事を立案、実行していた。40代になると、自治会から管理組合の役員も引き受け、マンション管理についてもかなり勉強したし、行政との関わりも学んだ。一番、充実していたとこかも知れない。
・JCC退社後、3人の仲間と印刷会社との共同事業として、編集、デザイン、企画会社として「創作社」を創設するも、桜美林大学以外は仕事もなく、アップアップの出だしであった。
・1年後、リクルート「住宅情報」に対抗した読売新聞社発行の週刊「読売住宅案内」の創刊業務の仕事が入り、当初は校正請負の仕事であったが、故あって、ライター部門に転換。黒田も加わった5人ほどのライターで原稿仕上げからゲラチェックまで行う作業を週25本(1本2P仕上げ)こなす。黒田は主に住友不動産関係を担当、千葉八街から野田、埼玉川越、神奈川大岡山までカバーした。
・しかし、「読売住宅案内」は3年で廃刊。その後、不動産関係のパンフやリーフレット、ちらし制作、大多摩霊園の新聞広告制作、故郷の会社案内などをこなすかたわら、広告代理店国連社の依頼により日本コムシスの社内報の取材(約20P、月刊)を3年ほど、生協事業連合の外部向け機関誌「COOP」の取材(約20P、月刊)を1年、業界紙「蒟蒻新聞」の編集など逐次携わる。
・また、この間においても、「桜美林だより」の編集、発行業務は継続し、さらに、同大の学生部の依頼により「学生生活ガイド」の創刊に携わる。
1993年~2000年ごろ
・40代後半は、今度は、会社もやめ、個人で仕事、と言っても、桜美林大だけで、なんとかやっていけるめどをもって、10年ほど頑張る。その間、胃がんを煩い、胃を全摘。しかし、ひとりなものだから、退院後、数日間で現場復帰。車の運転免許を47歳でとっておいて助かった。とにかく、埼玉から町田の桜美林まで往復5時間はかかるから。都内通過はなかなか厳しいです。
・桜美林オンリーでは、沖縄にかなり、頻繁にいった。年2回は必ず。そこで、沖縄のこともべんきょうさせてもらった。いまも、先生であり、友人としてもお付き合いしている吉田先生。先だって、福島社民党党首が普天間問題で手渡した本の著者。それと、文化人類学で鯨の先生、大学博物館と国際理解教育運動(今の、僕のユネスコ活動の指南役の面々はこの仲間や先生たち。
・山田顕義、清水安三、東亜同文書院のつながりも、中国との関心も、清水安三研究プロジェクトからきている。
・創作社は代表逝去で移設。黒田は移設前に退社し、個人事業として黒田企画を立ち上げ、2000年ごろまで先の「桜美林大学だより」「学生生活ガイド」ほか、「桜美林大学だより」縮刷版(1号~100号)、同「索引集」、「桜美林学園創立45(後50)周年記念誌「史料集」(1号~7号)、同合本企画(青焼き段階で中止)、「ヴォランティア報告集」(1号~3号)、「草の根国際理解教育支援プロジェクト報告集」「桜美林フォーラム」「清水安三の思想と教育実践(ワークショップ報告集)」などの制作物を作り上げてきた。
・この間、数年にわたって滝沢新聞印刷の依頼により信越化学の社内報の編集(B5版、12P)や信越化学鹿島工場30年誌の編
・桜美林大学では、その後、清水安三記念プロジェクトの一員としてワークショップの報告集や大学の自己点検報告書の編集などに携わるが、故あって桜美林大学の仕事から退くことになる。ただし、清水安三プロジェクトには現在も参画し、調査などお手伝いを続けている。
・編集関連の仕事から、警備の仕事に移り、主には大宮駅の新幹線関連で警備業務に携わる。
・今から、5年ほど前、付き合いのあった豊橋創造大から短大の自己点検報告書の制作にかかわってほしいとの依頼に応じ、住み慣れた埼玉を離れ、郷里の豊川に戻り、創造大の自己点検報告書の制作に関与する。また、愛大の教務にも派遣で仕事に携わる。
・創造大の仕事も切れ、その後は、日本通運関連で宅配の仕事を半年、さらに、現在は郵便事業会社とホームヘルパーの仕事に従事している、かたわら、半ばヴォランティア活動として、ユネスコ協会や三河の応援団という位置づけで、ヒト、モノ、自然と多方面に問題意識を持って、活動を続けている。
・その中で、一つの形になったものが「北京崇貞学園と桜美林学園の創立者・清水安三を語る」(愛大東亜同文書院記念センター)での講演である。
大学との付き合いが一番長いものだから、4月と5月、市民と大学との関係を話してきたけれど、それも含めて、プロフィールを話してみたい。
(資料添付で)
・まずは、高校でのいなかもんが東京に行った1969年、それまで、東京なんて、中学の修学旅行で一度いったきりだから、カルチャーショックは相当なものだった。
大学は、巣鴨(ジジババの原宿)から、当時は、都電(こちらの市電)で白山下まで乗り出かけた。新聞やりたくて、入学式の当日、部室を訪ね、即入会。高校時代、新聞部にいたから、多少はかけると思ったが、どっこいそうは行かなかった。1年の時は、先輩編集長(これが、文学界だったかの新人賞の佳作をとった方で、しかも、学生時代に女性自身に転出、その後、いくつかの時期に、付き合いがあるのだけれど)に、徹底的にしごかれる。
とにかく、5行見るだけで、破られる。新聞というのは、真っ白のところに、記事の重要性を考え、レイアウトしていくわけで、自由度はあるのだが、その自由をどう切り盛りしていくかが難しい。雑誌の場合、枠が小さいから、それなりに制約もあり、そんなにむつかしくない。新聞のレイアウトができれば、雑誌はこなせる。内容は別にして。逆はできない。雑誌から、新聞はなかなかできない。というわけで、実務は、1ヶ月に2回発行だから、印刷所に入れる時は、完徹。午前3時頃、やっと1っぽんが認められ、と言っても、先輩整理マンがボツにすれば、それは掲載されない。
一方、新聞以外では、デモというのを初体験。とにかく、よく歩いた。山手線半周なんて当たり前だった、ワケも分からず、ついていくだけ。その後、先輩が新宿のジャズ喫茶(当時のジャズ喫茶は、豊橋でいうと、グロッタ、あそこのマスターの小林さん、法政のジャズ研の部長で、その後、知りあうのだけれど)に連れられ、マイルスやモンク、ロリンズといったレコードを聞かされ、これが都会なんだという、カルチャーショックを受けた。
・2年以後は、大学はある意味悪い時代(授業は消えた)だが、当時は、良かったのかもしれない。1970年、大学はストにロックアウト、正常に動かなかった、で、自分たちで勉強しあう、他の大学の連中もよく来ていた、それに、今は、有名評論家も学生新聞に書いていた。そんな、付き合いの先輩が、此の本、芸術国家論集、ここで書いている田中基、中村宏などが、僕のその後の歩みを決めた人たち。
・中村さんは、豊川の画家の近藤さん(国府高で絵を教えていた)と仲間で、ちょうど、僕が下宿していた西武線江古田(日大芸術学部のあるところ)に住んでいて、近くなものだから、よく遊びに行っていた。学生新聞の企画はすべて中村先生との話で、決めていた。
もう一人は、田中さん。今は、八ヶ岳の麓に住んでいて、少し前までは、諏訪のことにものすごく詳しくて、中沢新一さんと今、多摩美で図像学を教えている。今、僕が、この三河の神様なんかに興味を持っているのも田中さんのおかげ。
早稲田で一緒していた2人だけれど、もう一人、門倉さんがいるけれど、中村さん意外は早稲田の人で、その後輩に、今、精文館の2階に行けばすぐに分かる、松岡さんがいて、その松岡さんに拾われる。MACという会社。そこの、新聞のハイスクールライフの編集の手伝いで、社会人になるわけ。1年ほどだったけれど、学生新聞よりさらに、密度は濃かった。しかし、原稿書きのいろはは、その後、女性自身、アサヒ芸能の記者になっていった大学の先輩に学んだことが、生きていた。
・松岡さんは、1年後、会社を退職し、遊という雑誌を作り始め、それこそ、何でもありの世界を作り上げていく。ついていける訳ない。しかし、当時、その松岡さんが一目おいたのが中村さんの芸国のメンバーだから。だから、今も、その先輩たちの話には、信を置いているし、一語一語が怖い。
・僕は、ひとり残され、途方に暮れているとき、日大の仕事が入ってくる。23歳で、あの日大の教職員向けの広報の創刊に携わる、いいのか、悪いのか。学生新聞をやっていたなんて、これッポッチも話さなかった。向こうは知っていたかもしれないけれど。まだまだ、学生運動の残りがあった時代だし、知れたらどうしようと思っていた。
・広報といえば、トップの話も聞かされるし、あれだけ大きな大学、5000人の職員、名簿だけでも1冊の雑誌並だし、とにかく、何を焦点にすれば良いのか、まずは、人物調べ。大学の話になるけれど、大学を構成している人ってわかるかな?
・学生新聞の取材がこのとき役に立ったと思う。とにかく、名簿と専門分野、それに、素人知識をもとに、無謀にも、訪ねていく。話を聞く、まとめる。その連続で、5年かかった。15学部あるなかのきいマンを作り、その先生のもとに足しげく通い、情報をもらう。執筆をお願いすることで、その先生の知識をもらう、いわば、聴き学問。これも、いま、こうして話している内容の原点が、ここにある。
・もう一つ、これが、僕なりのSD。職員の自己改革をそう呼び、教員の自己改革をFDと呼ぶ。そういう言葉が使われ始めたのは、もっとあとになってからだけれど。
・そんなことが、あって13年、日大でお世話になった。
・日大で学んだことに、黒田先生との出会い、池田さんとの出会い、山田顕義との出会いがある。
・黒田先生は厚生省人口問題研究所所長を長く務められた先生で、学者肌で、国際肌で、当時、若造の僕を可愛がってくれ、生涯面倒を見ていただきました。僕は、胃がんでしたが、先生のおかげで、日大病院にもスムーズに入れましたし、手術も最高のスタッフでした。そんな、気さくな先生から学んだことは、学際というもの、総合的な学問への取り組みです。また、大学内の研究所のあり方や国際会議の進め方など、身近で学びましたから、本当に勉強になりました。そのころ、国連の人口活動基金の総裁をしていらしたサラスさんの翻訳本を最初から出版まで手掛け、ある種の本作の手ほどきを受けました。また、人口問題、今の、高齢社会などの話は、黒田先生からよく聞かされたものです。
・池田さんとは、植村さんと日大隊が北極を目指していた頃のお付き合いでした。偶然ですが、マサキの会長さんが池田さんをよくご存知で、びっくりしました。高齢者の登山、日本山岳会という登山家の集まりの会ですが、これには、この放送でも紹介した中尾さんも京大の学士山岳会との関係でもつながりがある。その池田さんからは、遠征隊の報告書づくりで学ばせてもらった。北極に日大のほとんどの学部から参加、歯医者はイヌイットの歯の検診、医学部からは、高山医療の先生が入り、寒いところの医療研究など、また、隊員のひとりが、基地のあったグリーンランドのエルズメア(この地には、先遣で入っていた日大の方が当地で地元のイヌイットと結婚された方がいた)で、英和辞典をもとにしたイヌイット語辞書も作った。池田さんは、出発地点のカナダの海岸で拾った貝の化石を東大に持ち込み、後に、新しい貝の化石であることがわかり、池田の名前がついたなど、面白い成果が、報告書に掲載された。日大ならではの、成果だったけれど、マサキさんと結びつくとは、本当にびっくり。
・山田顕義は日大の創始者。明治の元勲で、本来なら、NHKの大河ドラマの主人公になっても良い人物。龍馬伝がもてはやされているが、同時代の人で、吉田松陰の門下生のひとり。とにかく、幕末から明治にかけて、修羅場をくぐり抜け、幕府はもとより、西南戦争にいたるまで、いわば、当時の戦闘場面で活躍をした人。その一方、日大の前身である日本法律学校をつくりあげ、政治の舞台では、司法大臣も務める。この人物像を歴史の中に位置づける、愛大でいえば、本間先生を歴史の中に位置づける、この作業のしょっぱなに
関係した。大学と僕の関係のひとつの原点みたいなもの。後に、桜美林で大学博物館づくりに出くわすわけだが、特に、私学の理念は創業者の思いが強く、理念、設立趣意書文と使命をよく読み解く必要があり、それを現代に置き換え、何をなすべきか考える。山田顕義の伝記を扱うことから、学んだ。
・1980年代は、会社勤めから独立へ。仕事も日大から桜美林大。その他、不動産関連の読売住宅案内、コムシスの社内報、日本生協連の宣伝媒材、霊園の広告、こんにゃく新聞制作の手伝い、などいろんなものを作っていた。全国を廻っていたのもこのころで、初めての海外もこの時期に体験。バンコックへの出張,コムシスで。
・その一方、マンションでは、自治会役員に関わり、毎月の行事を立案、実行していた。40代になると、自治会から管理組合の役員も引き受け、マンション管理についてもかなり勉強したし、行政との関わりも学んだ。一番、充実していたとこかも知れない。
・JCC退社後、3人の仲間と印刷会社との共同事業として、編集、デザイン、企画会社として「創作社」を創設するも、桜美林大学以外は仕事もなく、アップアップの出だしであった。
・1年後、リクルート「住宅情報」に対抗した読売新聞社発行の週刊「読売住宅案内」の創刊業務の仕事が入り、当初は校正請負の仕事であったが、故あって、ライター部門に転換。黒田も加わった5人ほどのライターで原稿仕上げからゲラチェックまで行う作業を週25本(1本2P仕上げ)こなす。黒田は主に住友不動産関係を担当、千葉八街から野田、埼玉川越、神奈川大岡山までカバーした。
・しかし、「読売住宅案内」は3年で廃刊。その後、不動産関係のパンフやリーフレット、ちらし制作、大多摩霊園の新聞広告制作、故郷の会社案内などをこなすかたわら、広告代理店国連社の依頼により日本コムシスの社内報の取材(約20P、月刊)を3年ほど、生協事業連合の外部向け機関誌「COOP」の取材(約20P、月刊)を1年、業界紙「蒟蒻新聞」の編集など逐次携わる。
・また、この間においても、「桜美林だより」の編集、発行業務は継続し、さらに、同大の学生部の依頼により「学生生活ガイド」の創刊に携わる。
1993年~2000年ごろ
・40代後半は、今度は、会社もやめ、個人で仕事、と言っても、桜美林大だけで、なんとかやっていけるめどをもって、10年ほど頑張る。その間、胃がんを煩い、胃を全摘。しかし、ひとりなものだから、退院後、数日間で現場復帰。車の運転免許を47歳でとっておいて助かった。とにかく、埼玉から町田の桜美林まで往復5時間はかかるから。都内通過はなかなか厳しいです。
・桜美林オンリーでは、沖縄にかなり、頻繁にいった。年2回は必ず。そこで、沖縄のこともべんきょうさせてもらった。いまも、先生であり、友人としてもお付き合いしている吉田先生。先だって、福島社民党党首が普天間問題で手渡した本の著者。それと、文化人類学で鯨の先生、大学博物館と国際理解教育運動(今の、僕のユネスコ活動の指南役の面々はこの仲間や先生たち。
・山田顕義、清水安三、東亜同文書院のつながりも、中国との関心も、清水安三研究プロジェクトからきている。
・創作社は代表逝去で移設。黒田は移設前に退社し、個人事業として黒田企画を立ち上げ、2000年ごろまで先の「桜美林大学だより」「学生生活ガイド」ほか、「桜美林大学だより」縮刷版(1号~100号)、同「索引集」、「桜美林学園創立45(後50)周年記念誌「史料集」(1号~7号)、同合本企画(青焼き段階で中止)、「ヴォランティア報告集」(1号~3号)、「草の根国際理解教育支援プロジェクト報告集」「桜美林フォーラム」「清水安三の思想と教育実践(ワークショップ報告集)」などの制作物を作り上げてきた。
・この間、数年にわたって滝沢新聞印刷の依頼により信越化学の社内報の編集(B5版、12P)や信越化学鹿島工場30年誌の編
・桜美林大学では、その後、清水安三記念プロジェクトの一員としてワークショップの報告集や大学の自己点検報告書の編集などに携わるが、故あって桜美林大学の仕事から退くことになる。ただし、清水安三プロジェクトには現在も参画し、調査などお手伝いを続けている。
・編集関連の仕事から、警備の仕事に移り、主には大宮駅の新幹線関連で警備業務に携わる。
・今から、5年ほど前、付き合いのあった豊橋創造大から短大の自己点検報告書の制作にかかわってほしいとの依頼に応じ、住み慣れた埼玉を離れ、郷里の豊川に戻り、創造大の自己点検報告書の制作に関与する。また、愛大の教務にも派遣で仕事に携わる。
・創造大の仕事も切れ、その後は、日本通運関連で宅配の仕事を半年、さらに、現在は郵便事業会社とホームヘルパーの仕事に従事している、かたわら、半ばヴォランティア活動として、ユネスコ協会や三河の応援団という位置づけで、ヒト、モノ、自然と多方面に問題意識を持って、活動を続けている。
・その中で、一つの形になったものが「北京崇貞学園と桜美林学園の創立者・清水安三を語る」(愛大東亜同文書院記念センター)での講演である。
今日の豊橋FM放送
FM豊橋でこの金曜日、午前10時から30分電波に乗せて、東三河の事話している、今週はこの豊橋の校区めぐりで、八町校区を歩いたわけだが、その多くを占める豊橋公園に絞り、話してみた。
豊橋ユネスコのメンバーもこの公園に残され、見捨てられている遺跡(一八連隊の遺跡)を掘り起こしているし。その簡単な台本を紹介しておく。
・第3週(ぶらり校区:八町校区)・豊橋公園って、戦前はなんだったか、知っていますか、のお話。
実は、先週の太田さんの話の続きで、豊橋公園全域と市役所、豊城中学などが18連隊の施設であった。その、痕跡の掘り起こしをユネスコ協会がやっている。9つほど、調べている。正門と守衛さんの立哨、馬頭観音、東門、連隊記念碑の台座、武人の像、油庫、タバコのはい捨て場、西門など、今見れば、僕はゴミと言っているものばかりで、誰も、見知っていない建造物に名前をつける作業をしている。・各地域での空襲体験も大切だけれど、体験をより鮮明に記憶として訴求していくには、やはり、モノが必要、創造できないでしょう。痛いとか熱いとか、いわれても。とにかく、まだ残されている施設などにネームを振る必要があるし、9月にはリーフレットもできるから、市民まつりなどの折には、ツア企画も計画しているので、見直してみて欲しい。・ところで、先日の太田さん、豊橋に海軍の船の特攻基地があったの知っていますか。太田さんしか今のところ、知っていない。朝倉川と豊川の合流地点にあったといわれていたけれど、これは、GHQがくる前に、跡形もなく、消滅させた。しかし、その他の施設は、僕の記憶の中にも、木造校舎(兵舎)の豊城中学は鮮明に覚えている。・しかし、その後の、公園、動物園が立ったり、体育館が建ったり変遷しているけれど、街中の一等地に刑務所があるのも面白いね。・八町で興味深いのは、井上靖のご両親が住んでいたという話、しろばんばなどに出ているけれど、その、場所がどこか、新聞には出たらしいのだが、なかなか見つからなかったけれど、国一からけやき通りを入った右の小路の角から2軒目の居酒屋さん。こんなふうにところで、この間、奥三河の件で英文と中国文を載せたけれど、COP10のエクスカーションへの取り組みも考えている。
5月23日に一度、紹介しましたが、慣れないもので、その後、6月6日の賀茂神社と照山ウオークは15人の参加をいただき、一応、成功しました。古い森の形態の痕跡を残す鎮守の森、照葉樹林の森はこの東三河にはまだまだ残されています。里山は注目されていますが、どこか、景観としての里山が一人歩きして、本来の里山の意味が消えているように思えています。ところで、僕の友人の豊根の仲間(女性で母親)が、奥三河についてのメッセージを作り、それをもとに、英語と中国語で翻訳してみました。10月に名古屋で開かれるCOP10の時に、エクスカーションとして、奥三河の一部でも世界のひとに見てもらいたいと思い、作りました。このブログで一応、発信しますが、世界につながるのかどうか、心もとないのですが、もし、わかる方がいらしたら、教えてください。メールでも、結構です。メール:l46hurh8@na.commufa.jp
以下は、中国語と日本文、そして英文です。
p1)奥三河 奥三河森林
森林作成者:愛知県豊根村 作者:爱知县丰根村
P2)奥三河 奥三河森林 森林
奥三河の場所 奥三河的位置愛知県を分割すると、名古屋、尾張、西三河、東三河、奥三河に分けることができます。奥三河は、広域では東三河に入り、豊川の上流域と天竜川の支流域が奥三河にあたり、新城市(旧鳳来町)、北設楽郡(設楽町、東栄町、豊根村)を奥三河といいます。
如果将爱知县进行分割,可以分割为名古屋,尾张,西三河,东三河,奥三河.奥三河,广域进入东三河,丰川的上游地区和天龙川的支流阶段在奥三河时,把新城市(旧凤来町),北设乐郡(设乐町,东荣町,丰根村)称为奥三河.
愛知県、長野県、静岡県の県境にあり、森林に囲まれた自然豊かな場所です。杉や檜が山肌を覆い、薄暗く感じさせていますが、紅葉時には杉や檜の緑が広葉樹の赤や黄色を映えさせてくれます。
奥三河位于爱知县,长野县,静冈县三县的交界处,是一处被森林环抱,自然资源十分丰富的地方. 葱葱郁郁的杉树和丝柏掩盖了群山的地表,使人觉得发暗.但是,到了秋天,杉树和丝柏的碧绿却恰如其分的映衬了阔叶树的赤红和金黄.
季節の色彩を肌で感じさせてくれるそんな場所です。
是一处可以让人亲身感受到季节色彩变换的地方.
奥三河の祭事・神事
奥三河的节日,祭神
・花祭り(東栄町、設楽町、豊根村) ・しかうち神事(東栄町)
・浴佛会(东荣町,设乐町,丰根村) 鹿内神事(东荣町)
・長者平の神楽(新城市) ・貝津田棒の手(設楽町)
・长者平的神乐(新城市) 贝津田棒的手(设乐町)
・御神楽祭り(豊根村) ・田峯田楽(設楽町)
・御神乐祭(丰根村) 田峯田乐(设乐町)
・参候祭(設楽町) ・富永神社祭礼(新城市)
・参侯祭(设乐町) 富永神社祭礼(新城市)
・鳳来寺田楽(新城市)
・鳯来寺田乐(新城市)
などがあります。
等等.
森林の現状 森林的现状私が知っている限りでは、奥三河というところはほとんどの山に杉、桧の木が多く植えられているということです。ほぼ50年前、ちょうど戦時中に植えられた木がほとんどだと思います。急斜面に植えられた木が、今は手が付けられずにいます。
\据我所知,在奥三河的大部分山上,都种植了杉树和丝柏.我想大部分大约是50年前,正好战争时期被种植的.被种植在斜面上的树木,到现在都让人无法着手.
山林をそのままに放置するとどうなるでしょう。木が大きくなるに従って枝が伸び、森に陽が当たらなくなります。そうすると地面に生えている雑草や野草なども生えなくなり、土がやせていきます。土地がやせていけば、そこに住んでいる動物たちにも影響が出てきます。動物たちの食べ物もなくなるわけです。そのため動物たちも命がけで、人間の住んでいる場所へ食べ物を求めてやってくるのです。これは人間が手を加えない限り、元には戻せません。
如果就那样放置山林任意生长的话会怎样呢.随着树木的生长,枝叶延展,森林无法得到充足的阳光. 地面上的杂草和野草等也会停止生长,土地就会变的贫瘠。一旦土地贫瘠,赖以生存的动物也将受到影响.由于食物变少,动物就会到人类生存的地方来获取食物.如果在这一点上人类不加以干预的话,整个森林系统将失去平衡.
昔、山林の仕事をしていた方々も高齢化し、山林を抱えていてもお金にはなりません。むしろ、お金を出して手入れをしなくてはいけないのです。それに山林や土地を持っていた方々も街へ出たり高齢化したり、世代が変わってそのままの状態です。
过去从事山林工作的人都上了年纪.即使拥有山林也不见得能赚到钱.反之还必须花钱来维护,打理山林.并且山林和土地的所有者也去了城市或者上了年纪.虽然到了下一代却还是保持那样的状态.
山に入るには山のことが詳しくないと入れません。山も財産です。よそ様の土地に勝手に入って山仕事は出来ないのです。木も同様です。勝手に伐採は出来ないのです。
对山林不熟悉的话不能进入山林.山林也是财产.我们不能自作主张的进入别人的土地去干活.树木也是一样.不能随意砍伐.
山の持ち主である地主の許可がいるのです。
需要山林拥有者的许可.
そして何よりも山師の仕事はとても危険です。経験も必要です。朝から晩まで山の中へ入り、急斜面での仕事をします。山の中は危険がいっぱいです。私も詳しいことはわかりませんが、命がけです。それでも昔の人は山の仕事に誇りを持っていました。山や木のこともたくさん知っていました。いつからこうなってしまったのでしょう。
采矿工作是十分危险的.需要丰富的经验.采矿者从早到晚在山林里工作.山林里有很多危险因素.虽然我知道的不是很详细,但确是十分冒险的工作.但即使是这样,以前的采矿者对于自己的工作都有一份自豪感.因为自己对山林的事无所不知,无所不详.
時代が変わり、山の仕事だけでは食べてはいけなくなりました。若い人達も良い仕事を求めて街へ出ていくようになりました。ちょうど高度経済成長期ぐらいからでしょうか、他の仕事もしながら、林業を営むようになりましたが、木の価値や山の価値は下がるいっぽうでした。そして、現状は高齢化してしまい後継者もなく、今でも山林の価値は全く上がらないままです。都会では土地の価格はものすごく高いのに。同じ日本でも全然違いますね。
时代变迁,光是山林的工作已经不够养活家庭了.年轻人为了找到好的工作离开故乡.即使是在日本高度经济成长期,一边做别的工作,一边经营山林,但树木的价值和山林的价值却是下降的.更何况,现在由于没有后继者,现在山林根本无法增值.但是大城市的土地价格确实居高不下.即使是在同一个国家,境况却完全不一样.
これからの時代、環境価値を付けて森林をもっと価値あるものにしていきたいですね。何事も循環が大切です。今后的时代,希望被附加上环境价值的森林能够更有价值.而要做到这一点,循环是非常重要的.
この自然に恵まれた場所=地球に生まれて、私たちは反省しなければいけません。あふれるように流れている川、緑の山と水は切り離せません。雨が降った山では、雨水をろ過して私たちの生活水にしてくれます。木の役割も大きいです。葉は空気を清浄し、根っこは土を流さないように固めてくれます。水のありがたみが薄れつつあります。豊富な水源は当たり前のように感じてしまいますが、もっと大事に使いたいです。そして、緑の森の中にも、平気でゴミを置いていく方々がいるのです。人気のない道路や林道の中で、それをみると悲しくなります。自分の敷地内にゴミがなければいいというような考えなのでしょうか。同じ地球なのに・・・。出生并且生长在这个受大自然恩惠的地球上的我们,也必须要时常反省.绿水,青山,两者不能割离.山林对我们非常重要.山上的降水,成为我们的生活用水.树木的作用也非常大.叶子可以清新空气,根部可以防止泥土疏松.可是人类对于水资源的感激之情却越来越淡薄.觉得拥有丰富的水资源是理所当然的事情.另外,还存在着一些人,能毫不在乎的将垃圾丢弃在森林里.当在一些不是很为人知的小路上看到这些垃圾的时候,我感到十分的悲哀.只要自己住的地方没有垃圾就可以了吗.我们是生活在同一个地球上啊.
このままの状態では未来の子供たちに森を残すことは難しいでしょう。
如果这样下去的话,我们很难能给自己的后代留下森林了.
私が言いたいことは、奥三河は自然豊かに見えますが、人間の知らないところで日々変化しているということです。山や木の価値が下がっている今、一本残らず切ってしまう方もいます。山肌が見える山も出てきました。
我想说的是,奥三河的自然环境虽然优越,但是在不知不觉中也在发生着变化.在山和树木的价值低下的现在,将树木全部砍掉的人也存在.直到砍伐树木到露出山的地表.
一本の木が今の大きさに育つまでには何十年と掛かります。人間のように手をかけてあげれば、価値も出てくると思います。ご理解いただければと思います。
将一棵树栽培到现在的高度和大小,需要几十年的时间.希望各位能理解.
このCOP10にご参加いただく方々に、奥三河の山林=自然について、少しでもご理解いただくために、ご案内いたしました。
为了能得到参加这次COP10的各位的更多的理解,我做了以上关于奥三河的山林和自然的介绍.
次は英文です。
Okumikawa Region and Its ForestsWritten by Harumi KUMAGAIToyone-villege, Aichi prefectureLocation: Aichi prefecture can be divided into five regions; Nagoya,
Owari, Nishimikawa, Higashimikawa, and Okumikawa. Further, Okumikawa can be construed as a part of Greater Higashimikawa, and is composed of the upper Toyokawa river and the areas around the tributaries of the Tenryu river. Administratively it is made of Shinshiro-shi (formerly Horai-cho), Kita-shitara county (formerly Shitara-cho, Toei-cho, and Toyone-mura).This area is the cross-road of Aichi, Nagano and Shizuoka prefectures and it is filled with rich forests. Cedar trees and hinoki-cypress trees so thickly cover this area that we often feel that the sun light does not reach the ground. In autumn, these evergreen trees highlight the red and yellow colours of the deciduous trees. This is the very place where we can intimately feel the changing colours of the four seasons.Festivals of Okumikawa:Hanamaturi(‘The Hana Matsuri’ is a rare entertainment according to the Shinto rites.People dance 40 kinds of styles of Dance through out the night. Its descended from dignitaries who were from mountainside of Kumano and Kagahakusan,to the only the river system of Tenryu , during the end of the Kamakura period to the Muromachi period. And it was designated for an important intangible cultural asset in the 51th year of the Showa period.It is held at 11 different places including: Futto, shimoawashiro, Hukawa, Misono, kobayashi, Higashisomeno,Tsuki, Ashikome,Kawachi,Nakashitara, Nakazaike. in Toei city from the middle of November to the beginning of March. ‘ Toei festival’ is also held with the aim of showing widely about the highlight of the Hana Matsuri on 3rd November)of Toei-cho, Shitara-cho and Toei-cho,Deer hunting festival in Toei-cho,Kagura in Shinshiro-shi (Shinto shrine dance and music),Kaitsuta-bohnote in Shitara-cho (Martial art dance),Mikagura in Toyone-mura (Shinto shrine dance and music),Tamine dengaku in Shitara-cho (Rice fertility dance and music),Sanko festival in Shitara-cho (Buddhist temple festival),Tominaga Shrine festival in Shinshiro-shi,Horaiji Dengaku in Shinshiro-shi (Buddhist temple rice fertility festival).The Conditions of Our Forests in Recent YearsThe mountains of Okumikawa are densely covered with cedars and hinoki-cypresses. Most of them were planted about a half century ago during the Pacific War. These trees planted on the steep slopes are now outside the range of our forest maintenance works. What happens when these forests are not properly maintained? As the trees grow and branches spread out, the ground increasingly becomes devoid of sun light. Then the grasses and underbrush near the ground slowly die out and the mountains lose natural nutrients. As the ground becomes less and less fertile, the animals in the area become hungrier as their food sources become lean. Thus, in order to survive, these animals have to come out of the forests to find new food sources, and thus they encounter human beings. This situation will not return to the status quo ante unless we make a deliberate effort.Our present forestry workers are becoming old. Our forests no longer produce economic gains, and we in fact have to pay large costs just to maintain the forests in a reasonable state of health. Many owners of these forests have aged and moved to urban areas, and the forests remain in a dangerous state. In order to maintain the forests in a proper condition, we must have appropriate knowledge. To start with, these forests are private properties, and outsiders cannot just enter or work on them. The trees in these mountains cannot be just logged without permission of the owners.Above all, the forest workers’ task is dangerous and requires a lot of experience. From early morning till night fall, they often remain on the steep slopes to work. Their work many a time involves accidents and high risks. I am not speaking out of my own experience, but I know these workers do their work while risking their own lives. In the past these forestry workers were proud of their mission and were equipped with abundant knowledge of the forests. I sometimes wonder when our forest industry started to declineOur times have changed. We can no longer economically support our lives, working in the forests. The younger members of our society leave this area for towns in search of better paying jobs. Did this trend begin in the 1960’s? The forest industry has gradually turn into a part-time business, while the price of lumber and the value of mountains keeps falling. Now this industry employs only high aged workers and no young successors, and the value of the forest industry remains low. Meanwhile urban land prices soar. What a contrast this is within Japan! We would like to see people paying more respect to our forest industry. Some sustainable life cycle must be established as these forests are an essential part of our life.We must seriously reflect on our present way of life as we are living in this unforgiving environment, called earth. Affluently flowing rivers and green mountains are an indispensable source of our water. Rain water is filtered by the mountains and becomes our drinking water. Trees also play a significant role in this process. Tree leaves clean our air, and tree roots keep the soil firmly on the ground. We often forget the value of our priceless water and we take for granted an abundant supply of water. We have to recognize the true value of this gift. We often notice some hikers and visitors, littering garbage all over the forests. When we actually see the garbage left on the trails and paths in the forests, we are truly saddened. Though sharing this earth, some people seem to think that all is right as long as the garbage is not dumped in their backyard. If this situation continues, we cannot leave these forests in good condition for future generations.The message that I really want to convey here is, that although the Okumikawa region may superficially appear filled with rich natural gifts, the general condition of our environment is constantly and quietly deteriorating in many spots. While the economic value of forests and mountains depreciate, some owners of these properties are clear-cutting all of their trees. Some mountains are denuded. A tree takes tens of years to grow like human beings. When we take proper care of the trees, the value of these trees will increase. I beg of your understanding on this point.I am presenting this case so that the participants of COP10 might understand the eco-system of our Okumikawa area better and further.
豊橋ユネスコのメンバーもこの公園に残され、見捨てられている遺跡(一八連隊の遺跡)を掘り起こしているし。その簡単な台本を紹介しておく。
・第3週(ぶらり校区:八町校区)・豊橋公園って、戦前はなんだったか、知っていますか、のお話。
実は、先週の太田さんの話の続きで、豊橋公園全域と市役所、豊城中学などが18連隊の施設であった。その、痕跡の掘り起こしをユネスコ協会がやっている。9つほど、調べている。正門と守衛さんの立哨、馬頭観音、東門、連隊記念碑の台座、武人の像、油庫、タバコのはい捨て場、西門など、今見れば、僕はゴミと言っているものばかりで、誰も、見知っていない建造物に名前をつける作業をしている。・各地域での空襲体験も大切だけれど、体験をより鮮明に記憶として訴求していくには、やはり、モノが必要、創造できないでしょう。痛いとか熱いとか、いわれても。とにかく、まだ残されている施設などにネームを振る必要があるし、9月にはリーフレットもできるから、市民まつりなどの折には、ツア企画も計画しているので、見直してみて欲しい。・ところで、先日の太田さん、豊橋に海軍の船の特攻基地があったの知っていますか。太田さんしか今のところ、知っていない。朝倉川と豊川の合流地点にあったといわれていたけれど、これは、GHQがくる前に、跡形もなく、消滅させた。しかし、その他の施設は、僕の記憶の中にも、木造校舎(兵舎)の豊城中学は鮮明に覚えている。・しかし、その後の、公園、動物園が立ったり、体育館が建ったり変遷しているけれど、街中の一等地に刑務所があるのも面白いね。・八町で興味深いのは、井上靖のご両親が住んでいたという話、しろばんばなどに出ているけれど、その、場所がどこか、新聞には出たらしいのだが、なかなか見つからなかったけれど、国一からけやき通りを入った右の小路の角から2軒目の居酒屋さん。こんなふうにところで、この間、奥三河の件で英文と中国文を載せたけれど、COP10のエクスカーションへの取り組みも考えている。
5月23日に一度、紹介しましたが、慣れないもので、その後、6月6日の賀茂神社と照山ウオークは15人の参加をいただき、一応、成功しました。古い森の形態の痕跡を残す鎮守の森、照葉樹林の森はこの東三河にはまだまだ残されています。里山は注目されていますが、どこか、景観としての里山が一人歩きして、本来の里山の意味が消えているように思えています。ところで、僕の友人の豊根の仲間(女性で母親)が、奥三河についてのメッセージを作り、それをもとに、英語と中国語で翻訳してみました。10月に名古屋で開かれるCOP10の時に、エクスカーションとして、奥三河の一部でも世界のひとに見てもらいたいと思い、作りました。このブログで一応、発信しますが、世界につながるのかどうか、心もとないのですが、もし、わかる方がいらしたら、教えてください。メールでも、結構です。メール:l46hurh8@na.commufa.jp
以下は、中国語と日本文、そして英文です。
p1)奥三河 奥三河森林
森林作成者:愛知県豊根村 作者:爱知县丰根村
P2)奥三河 奥三河森林 森林
奥三河の場所 奥三河的位置愛知県を分割すると、名古屋、尾張、西三河、東三河、奥三河に分けることができます。奥三河は、広域では東三河に入り、豊川の上流域と天竜川の支流域が奥三河にあたり、新城市(旧鳳来町)、北設楽郡(設楽町、東栄町、豊根村)を奥三河といいます。
如果将爱知县进行分割,可以分割为名古屋,尾张,西三河,东三河,奥三河.奥三河,广域进入东三河,丰川的上游地区和天龙川的支流阶段在奥三河时,把新城市(旧凤来町),北设乐郡(设乐町,东荣町,丰根村)称为奥三河.
愛知県、長野県、静岡県の県境にあり、森林に囲まれた自然豊かな場所です。杉や檜が山肌を覆い、薄暗く感じさせていますが、紅葉時には杉や檜の緑が広葉樹の赤や黄色を映えさせてくれます。
奥三河位于爱知县,长野县,静冈县三县的交界处,是一处被森林环抱,自然资源十分丰富的地方. 葱葱郁郁的杉树和丝柏掩盖了群山的地表,使人觉得发暗.但是,到了秋天,杉树和丝柏的碧绿却恰如其分的映衬了阔叶树的赤红和金黄.
季節の色彩を肌で感じさせてくれるそんな場所です。
是一处可以让人亲身感受到季节色彩变换的地方.
奥三河の祭事・神事
奥三河的节日,祭神
・花祭り(東栄町、設楽町、豊根村) ・しかうち神事(東栄町)
・浴佛会(东荣町,设乐町,丰根村) 鹿内神事(东荣町)
・長者平の神楽(新城市) ・貝津田棒の手(設楽町)
・长者平的神乐(新城市) 贝津田棒的手(设乐町)
・御神楽祭り(豊根村) ・田峯田楽(設楽町)
・御神乐祭(丰根村) 田峯田乐(设乐町)
・参候祭(設楽町) ・富永神社祭礼(新城市)
・参侯祭(设乐町) 富永神社祭礼(新城市)
・鳳来寺田楽(新城市)
・鳯来寺田乐(新城市)
などがあります。
等等.
森林の現状 森林的现状私が知っている限りでは、奥三河というところはほとんどの山に杉、桧の木が多く植えられているということです。ほぼ50年前、ちょうど戦時中に植えられた木がほとんどだと思います。急斜面に植えられた木が、今は手が付けられずにいます。
\据我所知,在奥三河的大部分山上,都种植了杉树和丝柏.我想大部分大约是50年前,正好战争时期被种植的.被种植在斜面上的树木,到现在都让人无法着手.
山林をそのままに放置するとどうなるでしょう。木が大きくなるに従って枝が伸び、森に陽が当たらなくなります。そうすると地面に生えている雑草や野草なども生えなくなり、土がやせていきます。土地がやせていけば、そこに住んでいる動物たちにも影響が出てきます。動物たちの食べ物もなくなるわけです。そのため動物たちも命がけで、人間の住んでいる場所へ食べ物を求めてやってくるのです。これは人間が手を加えない限り、元には戻せません。
如果就那样放置山林任意生长的话会怎样呢.随着树木的生长,枝叶延展,森林无法得到充足的阳光. 地面上的杂草和野草等也会停止生长,土地就会变的贫瘠。一旦土地贫瘠,赖以生存的动物也将受到影响.由于食物变少,动物就会到人类生存的地方来获取食物.如果在这一点上人类不加以干预的话,整个森林系统将失去平衡.
昔、山林の仕事をしていた方々も高齢化し、山林を抱えていてもお金にはなりません。むしろ、お金を出して手入れをしなくてはいけないのです。それに山林や土地を持っていた方々も街へ出たり高齢化したり、世代が変わってそのままの状態です。
过去从事山林工作的人都上了年纪.即使拥有山林也不见得能赚到钱.反之还必须花钱来维护,打理山林.并且山林和土地的所有者也去了城市或者上了年纪.虽然到了下一代却还是保持那样的状态.
山に入るには山のことが詳しくないと入れません。山も財産です。よそ様の土地に勝手に入って山仕事は出来ないのです。木も同様です。勝手に伐採は出来ないのです。
对山林不熟悉的话不能进入山林.山林也是财产.我们不能自作主张的进入别人的土地去干活.树木也是一样.不能随意砍伐.
山の持ち主である地主の許可がいるのです。
需要山林拥有者的许可.
そして何よりも山師の仕事はとても危険です。経験も必要です。朝から晩まで山の中へ入り、急斜面での仕事をします。山の中は危険がいっぱいです。私も詳しいことはわかりませんが、命がけです。それでも昔の人は山の仕事に誇りを持っていました。山や木のこともたくさん知っていました。いつからこうなってしまったのでしょう。
采矿工作是十分危险的.需要丰富的经验.采矿者从早到晚在山林里工作.山林里有很多危险因素.虽然我知道的不是很详细,但确是十分冒险的工作.但即使是这样,以前的采矿者对于自己的工作都有一份自豪感.因为自己对山林的事无所不知,无所不详.
時代が変わり、山の仕事だけでは食べてはいけなくなりました。若い人達も良い仕事を求めて街へ出ていくようになりました。ちょうど高度経済成長期ぐらいからでしょうか、他の仕事もしながら、林業を営むようになりましたが、木の価値や山の価値は下がるいっぽうでした。そして、現状は高齢化してしまい後継者もなく、今でも山林の価値は全く上がらないままです。都会では土地の価格はものすごく高いのに。同じ日本でも全然違いますね。
时代变迁,光是山林的工作已经不够养活家庭了.年轻人为了找到好的工作离开故乡.即使是在日本高度经济成长期,一边做别的工作,一边经营山林,但树木的价值和山林的价值却是下降的.更何况,现在由于没有后继者,现在山林根本无法增值.但是大城市的土地价格确实居高不下.即使是在同一个国家,境况却完全不一样.
これからの時代、環境価値を付けて森林をもっと価値あるものにしていきたいですね。何事も循環が大切です。今后的时代,希望被附加上环境价值的森林能够更有价值.而要做到这一点,循环是非常重要的.
この自然に恵まれた場所=地球に生まれて、私たちは反省しなければいけません。あふれるように流れている川、緑の山と水は切り離せません。雨が降った山では、雨水をろ過して私たちの生活水にしてくれます。木の役割も大きいです。葉は空気を清浄し、根っこは土を流さないように固めてくれます。水のありがたみが薄れつつあります。豊富な水源は当たり前のように感じてしまいますが、もっと大事に使いたいです。そして、緑の森の中にも、平気でゴミを置いていく方々がいるのです。人気のない道路や林道の中で、それをみると悲しくなります。自分の敷地内にゴミがなければいいというような考えなのでしょうか。同じ地球なのに・・・。出生并且生长在这个受大自然恩惠的地球上的我们,也必须要时常反省.绿水,青山,两者不能割离.山林对我们非常重要.山上的降水,成为我们的生活用水.树木的作用也非常大.叶子可以清新空气,根部可以防止泥土疏松.可是人类对于水资源的感激之情却越来越淡薄.觉得拥有丰富的水资源是理所当然的事情.另外,还存在着一些人,能毫不在乎的将垃圾丢弃在森林里.当在一些不是很为人知的小路上看到这些垃圾的时候,我感到十分的悲哀.只要自己住的地方没有垃圾就可以了吗.我们是生活在同一个地球上啊.
このままの状態では未来の子供たちに森を残すことは難しいでしょう。
如果这样下去的话,我们很难能给自己的后代留下森林了.
私が言いたいことは、奥三河は自然豊かに見えますが、人間の知らないところで日々変化しているということです。山や木の価値が下がっている今、一本残らず切ってしまう方もいます。山肌が見える山も出てきました。
我想说的是,奥三河的自然环境虽然优越,但是在不知不觉中也在发生着变化.在山和树木的价值低下的现在,将树木全部砍掉的人也存在.直到砍伐树木到露出山的地表.
一本の木が今の大きさに育つまでには何十年と掛かります。人間のように手をかけてあげれば、価値も出てくると思います。ご理解いただければと思います。
将一棵树栽培到现在的高度和大小,需要几十年的时间.希望各位能理解.
このCOP10にご参加いただく方々に、奥三河の山林=自然について、少しでもご理解いただくために、ご案内いたしました。
为了能得到参加这次COP10的各位的更多的理解,我做了以上关于奥三河的山林和自然的介绍.
次は英文です。
Okumikawa Region and Its ForestsWritten by Harumi KUMAGAIToyone-villege, Aichi prefectureLocation: Aichi prefecture can be divided into five regions; Nagoya,
Owari, Nishimikawa, Higashimikawa, and Okumikawa. Further, Okumikawa can be construed as a part of Greater Higashimikawa, and is composed of the upper Toyokawa river and the areas around the tributaries of the Tenryu river. Administratively it is made of Shinshiro-shi (formerly Horai-cho), Kita-shitara county (formerly Shitara-cho, Toei-cho, and Toyone-mura).This area is the cross-road of Aichi, Nagano and Shizuoka prefectures and it is filled with rich forests. Cedar trees and hinoki-cypress trees so thickly cover this area that we often feel that the sun light does not reach the ground. In autumn, these evergreen trees highlight the red and yellow colours of the deciduous trees. This is the very place where we can intimately feel the changing colours of the four seasons.Festivals of Okumikawa:Hanamaturi(‘The Hana Matsuri’ is a rare entertainment according to the Shinto rites.People dance 40 kinds of styles of Dance through out the night. Its descended from dignitaries who were from mountainside of Kumano and Kagahakusan,to the only the river system of Tenryu , during the end of the Kamakura period to the Muromachi period. And it was designated for an important intangible cultural asset in the 51th year of the Showa period.It is held at 11 different places including: Futto, shimoawashiro, Hukawa, Misono, kobayashi, Higashisomeno,Tsuki, Ashikome,Kawachi,Nakashitara, Nakazaike. in Toei city from the middle of November to the beginning of March. ‘ Toei festival’ is also held with the aim of showing widely about the highlight of the Hana Matsuri on 3rd November)of Toei-cho, Shitara-cho and Toei-cho,Deer hunting festival in Toei-cho,Kagura in Shinshiro-shi (Shinto shrine dance and music),Kaitsuta-bohnote in Shitara-cho (Martial art dance),Mikagura in Toyone-mura (Shinto shrine dance and music),Tamine dengaku in Shitara-cho (Rice fertility dance and music),Sanko festival in Shitara-cho (Buddhist temple festival),Tominaga Shrine festival in Shinshiro-shi,Horaiji Dengaku in Shinshiro-shi (Buddhist temple rice fertility festival).The Conditions of Our Forests in Recent YearsThe mountains of Okumikawa are densely covered with cedars and hinoki-cypresses. Most of them were planted about a half century ago during the Pacific War. These trees planted on the steep slopes are now outside the range of our forest maintenance works. What happens when these forests are not properly maintained? As the trees grow and branches spread out, the ground increasingly becomes devoid of sun light. Then the grasses and underbrush near the ground slowly die out and the mountains lose natural nutrients. As the ground becomes less and less fertile, the animals in the area become hungrier as their food sources become lean. Thus, in order to survive, these animals have to come out of the forests to find new food sources, and thus they encounter human beings. This situation will not return to the status quo ante unless we make a deliberate effort.Our present forestry workers are becoming old. Our forests no longer produce economic gains, and we in fact have to pay large costs just to maintain the forests in a reasonable state of health. Many owners of these forests have aged and moved to urban areas, and the forests remain in a dangerous state. In order to maintain the forests in a proper condition, we must have appropriate knowledge. To start with, these forests are private properties, and outsiders cannot just enter or work on them. The trees in these mountains cannot be just logged without permission of the owners.Above all, the forest workers’ task is dangerous and requires a lot of experience. From early morning till night fall, they often remain on the steep slopes to work. Their work many a time involves accidents and high risks. I am not speaking out of my own experience, but I know these workers do their work while risking their own lives. In the past these forestry workers were proud of their mission and were equipped with abundant knowledge of the forests. I sometimes wonder when our forest industry started to declineOur times have changed. We can no longer economically support our lives, working in the forests. The younger members of our society leave this area for towns in search of better paying jobs. Did this trend begin in the 1960’s? The forest industry has gradually turn into a part-time business, while the price of lumber and the value of mountains keeps falling. Now this industry employs only high aged workers and no young successors, and the value of the forest industry remains low. Meanwhile urban land prices soar. What a contrast this is within Japan! We would like to see people paying more respect to our forest industry. Some sustainable life cycle must be established as these forests are an essential part of our life.We must seriously reflect on our present way of life as we are living in this unforgiving environment, called earth. Affluently flowing rivers and green mountains are an indispensable source of our water. Rain water is filtered by the mountains and becomes our drinking water. Trees also play a significant role in this process. Tree leaves clean our air, and tree roots keep the soil firmly on the ground. We often forget the value of our priceless water and we take for granted an abundant supply of water. We have to recognize the true value of this gift. We often notice some hikers and visitors, littering garbage all over the forests. When we actually see the garbage left on the trails and paths in the forests, we are truly saddened. Though sharing this earth, some people seem to think that all is right as long as the garbage is not dumped in their backyard. If this situation continues, we cannot leave these forests in good condition for future generations.The message that I really want to convey here is, that although the Okumikawa region may superficially appear filled with rich natural gifts, the general condition of our environment is constantly and quietly deteriorating in many spots. While the economic value of forests and mountains depreciate, some owners of these properties are clear-cutting all of their trees. Some mountains are denuded. A tree takes tens of years to grow like human beings. When we take proper care of the trees, the value of these trees will increase. I beg of your understanding on this point.I am presenting this case so that the participants of COP10 might understand the eco-system of our Okumikawa area better and further.
はじめまして
少し前、賀茂神社と照山ウオークの案内出しましたが、僕の友人のトランブレーみゆきさんのブログがきいいたのか、10人程が集まっていただき、楽しく歩くことができました。参加していただいた方には、お礼申し上げます。次回の企画は、設楽の食フェスをと段戸山の裏山の原生林か、津具の森林組合さんにお世話になって、津具の森林見学なんか、いいかなと思っています。この他、今、取り組んでいることを少し、披露しますと、1)「FM豊橋」で毎金曜日の午前10時からこのブログのタイトルと同じ黒板東三河で、1週目:三河に関連した書籍紹介、2週:クロちゃん交友録、3週:豊橋ぶらり校区、4週:コラム、5週:季刊誌「そう」の紹介。2 )「そう」での執筆3)笹踊りサミットに向けた学習会4)豊橋ユネスコ協会での地域遺産掘り起こし活動5)三河在住のブラジル人の方に対する言葉の問題への取り組みその他いろいろ。いずれにしても、それぞれのテーマで、学習会をなんとか開こうと思っている。お仲間になりたい方、このブログか、下記のメール:l46hurh8@na.commufa.jpまで。それと、COP10開催中に会議参加者の方に、奥三河を是非見て欲しいと考え、とりあえず、奥三河の現状について、英語と中国語の翻訳をしてみたんだけれど。日本文は豊根のkさん(女性)です。読んでみてください。最初が日本語と中国語です。p1)奥三河奥三河森林森林作成者:愛知県豊根村 作者:爱知县丰根村P2)奥三河奥三河森林森林奥三河の場所奥三河的位置愛知県を分割すると、名古屋、尾張、西三河、東三河、奥三河に分けることができます。奥三河は、広域では東三河に入り、豊川の上流域と天竜川の支流域が奥三河にあたり、新城市(旧鳳来町)、北設楽郡(設楽町、東栄町、豊根村)を奥三河といいます。如果将爱知县进行分割,可以分割为名古屋,尾张,西三河,东三河,奥三河.奥三河,广域进入东三河,丰川的上游地区和天龙川的支流阶段在奥三河时,把新城市(旧凤来町),北设乐郡(设乐町,东荣町,丰根村)称为奥三河.愛知県、長野県、静岡県の県境にあり、森林に囲まれた自然豊かな場所です。杉や檜が山肌を覆い、薄暗く感じさせていますが、紅葉時には杉や檜の緑が広葉樹の赤や黄色を映えさせてくれます。奥三河位于爱知县,长野县,静冈县三县的交界处,是一处被森林环抱,自然资源十分丰富的地方. 葱葱郁郁的杉树和丝柏掩盖了群山的地表,使人觉得发暗.但是,到了秋天,杉树和丝柏的碧绿却恰如其分的映衬了阔叶树的赤红和金黄.季節の色彩を肌で感じさせてくれるそんな場所です。是一处可以让人亲身感受到季节色彩变换的地方.奥三河の祭事・神事奥三河的节日,祭神・花祭り(東栄町、設楽町、豊根村) ・しかうち神事(東栄町)・浴佛会(东荣町,设乐町,丰根村) 鹿内神事(东荣町)・長者平の神楽(新城市) ・貝津田棒の手(設楽町)・长者平的神乐(新城市) 贝津田棒的手(设乐町)・御神楽祭り(豊根村) ・田峯田楽(設楽町)・御神乐祭(丰根村) 田峯田乐(设乐町)・参候祭(設楽町) ・富永神社祭礼(新城市)・参侯祭(设乐町) 富永神社祭礼(新城市)・鳳来寺田楽(新城市)・鳯来寺田乐(新城市)などがあります。等等.森林の現状森林的现状私が知っている限りでは、奥三河というところはほとんどの山に杉、桧の木が多く植えられているということです。ほぼ50年前、ちょうど戦時中に植えられた木がほとんどだと思います。急斜面に植えられた木が、今は手が付けられずにいます。\据我所知,在奥三河的大部分山上,都种植了杉树和丝柏.我想大部分大约是50年前,正好战争时期被种植的.被种植在斜面上的树木,到现在都让人无法着手.山林をそのままに放置するとどうなるでしょう。木が大きくなるに従って枝が伸び、森に陽が当たらなくなります。そうすると地面に生えている雑草や野草なども生えなくなり、土がやせていきます。土地がやせていけば、そこに住んでいる動物たちにも影響が出てきます。動物たちの食べ物もなくなるわけです。そのため動物たちも命がけで、人間の住んでいる場所へ食べ物を求めてやってくるのです。これは人間が手を加えない限り、元には戻せません。如果就那样放置山林任意生长的话会怎样呢.随着树木的生长,枝叶延展,森林无法得到充足的阳光. 地面上的杂草和野草等也会停止生长,土地就会变的贫瘠。一旦土地贫瘠,赖以生存的动物也将受到影响.由于食物变少,动物就会到人类生存的地方来获取食物.如果在这一点上人类不加以干预的话,整个森林系统将失去平衡.昔、山林の仕事をしていた方々も高齢化し、山林を抱えていてもお金にはなりません。むしろ、お金を出して手入れをしなくてはいけないのです。それに山林や土地を持っていた方々も街へ出たり高齢化したり、世代が変わってそのままの状態です。过去从事山林工作的人都上了年纪.即使拥有山林也不见得能赚到钱.反之还必须花钱来维护,打理山林.并且山林和土地的所有者也去了城市或者上了年纪.虽然到了下一代却还是保持那样的状态.山に入るには山のことが詳しくないと入れません。山も財産です。よそ様の土地に勝手に入って山仕事は出来ないのです。木も同様です。勝手に伐採は出来ないのです。对山林不熟悉的话不能进入山林.山林也是财产.我们不能自作主张的进入别人的土地去干活.树木也是一样.不能随意砍伐.山の持ち主である地主の許可がいるのです。需要山林拥有者的许可.そして何よりも山師の仕事はとても危険です。経験も必要です。朝から晩まで山の中へ入り、急斜面での仕事をします。山の中は危険がいっぱいです。私も詳しいことはわかりませんが、命がけです。それでも昔の人は山の仕事に誇りを持っていました。山や木のこともたくさん知っていました。いつからこうなってしまったのでしょう。采矿工作是十分危险的.需要丰富的经验.采矿者从早到晚在山林里工作.山林里有很多危险因素.虽然我知道的不是很详细,但确是十分冒险的工作.但即使是这样,以前的采矿者对于自己的工作都有一份自豪感.因为自己对山林的事无所不知,无所不详.時代が変わり、山の仕事だけでは食べてはいけなくなりました。若い人達も良い仕事を求めて街へ出ていくようになりました。ちょうど高度経済成長期ぐらいからでしょうか、他の仕事もしながら、林業を営むようになりましたが、木の価値や山の価値は下がるいっぽうでした。そして、現状は高齢化してしまい後継者もなく、今でも山林の価値は全く上がらないままです。都会では土地の価格はものすごく高いのに。同じ日本でも全然違いますね。时代变迁,光是山林的工作已经不够养活家庭了.年轻人为了找到好的工作离开故乡.即使是在日本高度经济成长期,一边做别的工作,一边经营山林,但树木的价值和山林的价值却是下降的.更何况,现在由于没有后继者,现在山林根本无法增值.但是大城市的土地价格确实居高不下.即使是在同一个国家,境况却完全不一样.これからの時代、環境価値を付けて森林をもっと価値あるものにしていきたいですね。何事も循環が大切です。今后的时代,希望被附加上环境价值的森林能够更有价值.而要做到这一点,循环是非常重要的.この自然に恵まれた場所=地球に生まれて、私たちは反省しなければいけません。あふれるように流れている川、緑の山と水は切り離せません。雨が降った山では、雨水をろ過して私たちの生活水にしてくれます。木の役割も大きいです。葉は空気を清浄し、根っこは土を流さないように固めてくれます。水のありがたみが薄れつつあります。豊富な水源は当たり前のように感じてしまいますが、もっと大事に使いたいです。そして、緑の森の中にも、平気でゴミを置いていく方々がいるのです。人気のない道路や林道の中で、それをみると悲しくなります。自分の敷地内にゴミがなければいいというような考えなのでしょうか。同じ地球なのに・・・。出生并且生长在这个受大自然恩惠的地球上的我们,也必须要时常反省.绿水,青山,两者不能割离.山林对我们非常重要.山上的降水,成为我们的生活用水.树木的作用也非常大.叶子可以清新空气,根部可以防止泥土疏松.可是人类对于水资源的感激之情却越来越淡薄.觉得拥有丰富的水资源是理所当然的事情.另外,还存在着一些人,能毫不在乎的将垃圾丢弃在森林里.当在一些不是很为人知的小路上看到这些垃圾的时候,我感到十分的悲哀.只要自己住的地方没有垃圾就可以了吗.我们是生活在同一个地球上啊.このままの状態では未来の子供たちに森を残すことは難しいでしょう。如果这样下去的话,我们很难能给自己的后代留下森林了.私が言いたいことは、奥三河は自然豊かに見えますが、人間の知らないところで日々変化しているということです。山や木の価値が下がっている今、一本残らず切ってしまう方もいます。山肌が見える山も出てきました。我想说的是,奥三河的自然环境虽然优越,但是在不知不觉中也在发生着变化.在山和树木的价值低下的现在,将树木全部砍掉的人也存在.直到砍伐树木到露出山的地表.一本の木が今の大きさに育つまでには何十年と掛かります。人間のように手をかけてあげれば、価値も出てくると思います。ご理解いただければと思います。将一棵树栽培到现在的高度和大小,需要几十年的时间.希望各位能理解.このCOP10にご参加いただく方々に、奥三河の山林=自然について、少しでもご理解いただくために、ご案内いたしました。为了能得到参加这次COP10的各位的更多的理解,我做了以上关于奥三河的山林和自然的介绍.次が英文です。
Okumikawa Region and Its ForestsToyone-villege, Aichi prefectureLocation: Aichi prefecture can be divided into five regions; Nagoya, Owari, Nishimikawa, Higashimikawa, and Okumikawa. Further, Okumikawa can be construed as a part of Greater Higashimikawa, and is composed of the upper Toyokawa river and the areas around the tributaries of the Tenryu river. Administratively it is made of Shinshiro-shi (formerly Horai-cho), Kita-shitara county (formerly Shitara-cho, Toei-cho, and Toyone-mura).This area is the cross-road of Aichi, Nagano and Shizuoka prefectures and it is filled with rich forests. Cedar trees and hinoki-cypress trees so thickly cover this area that we often feel that the sun light does not reach the ground. In autumn, these evergreen trees highlight the red and yellow colours of the deciduous trees. This is the very place where we can intimately feel the changing colours of the four seasons.Festivals of Okumikawa: Hanamaturi(‘The Hana Matsuri’ is a rare entertainment according to the Shinto rites.People dance 40 kinds of styles of Dance through out the night. Its descended from dignitaries who were from mountainside of Kumano and Kagahakusan,to the only the river system of Tenryu , during the end of the Kamakura period to the Muromachi period. And it was designated for an important intangible cultural asset in the 51th year of the Showa period. It is held at 11 different places including: Futto, shimoawashiro, Hukawa, Misono, kobayashi, Higashisomeno,Tsuki, Ashikome,Kawachi,Nakashitara, Nakazaike. in Toei city from the middle of November to the beginning of March. ‘ Toei festival’ is also held with the aim of showing widely about the highlight of the Hana Matsuri on 3rd November)of Toei-cho, Shitara-cho and Toei-cho,Deer hunting festival in Toei-cho,Kagura in Shinshiro-shi (Shinto shrine dance and music),Kaitsuta-bohnote in Shitara-cho (Martial art dance),Mikagura in Toyone-mura (Shinto shrine dance and music),Tamine dengaku in Shitara-cho (Rice fertility dance and music),Sanko festival in Shitara-cho (Buddhist temple festival),Tominaga Shrine festival in Shinshiro-shi,Horaiji Dengaku in Shinshiro-shi (Buddhist temple rice fertility festival).The Conditions of Our Forests in Recent YearsThe mountains of Okumikawa are densely covered with cedars and hinoki-cypresses. Most of them were planted about a half century ago during the Pacific War. These trees planted on the steep slopes are now outside the range of our forest maintenance works. What happens when these forests are not properly maintained? As the trees grow and branches spread out, the ground increasingly becomes devoid of sun light. Then the grasses and underbrush near the ground slowly die out and the mountains lose natural nutrients. As the ground becomes less and less fertile, the animals in the area become hungrier as their food sources become lean. Thus, in order to survive, these animals have to come out of the forests to find new food sources, and thus they encounter human beings. This situation will not return to the status quo ante unless we make a deliberate effort.Our present forestry workers are becoming old. Our forests no longer produce economic gains, and we in fact have to pay large costs just to maintain the forests in a reasonable state of health. Many owners of these forests have aged and moved to urban areas, and the forests remain in a dangerous state. In order to maintain the forests in a proper condition, we must have appropriate knowledge. To start with, these forests are private properties, and outsiders cannot just enter or work on them. The trees in these mountains cannot be just logged without permission of the owners.Above all, the forest workers’ task is dangerous and requires a lot of experience. From early morning till night fall, they often remain on the steep slopes to work. Their work many a time involves accidents and high risks. I am not speaking out of my own experience, but I know these workers do their work while risking their own lives. In the past these forestry workers were proud of their mission and were equipped with abundant knowledge of the forests. I sometimes wonder when our forest industry started to declineOur times have changed. We can no longer economically support our lives, working in the forests. The younger members of our society leave this area for towns in search of better paying jobs. Did this trend begin in the 1960’s? The forest industry has gradually turn into a part-time business, while the price of lumber and the value of mountains keeps falling. Now this industry employs only high aged workers and no young successors, and the value of the forest industry remains low. Meanwhile urban land prices soar. What a contrast this is within Japan! We would like to see people paying more respect to our forest industry. Some sustainable life cycle must be established as these forests are an essential part of our life.We must seriously reflect on our present way of life as we are living in this unforgiving environment, called earth. Affluently flowing rivers and green mountains are an indispensable source of our water. Rain water is filtered by the mountains and becomes our drinking water. Trees also play a significant role in this process. Tree leaves clean our air, and tree roots keep the soil firmly on the ground. We often forget the value of our priceless water and we take for granted an abundant supply of water. We have to recognize the true value of this gift. We often notice some hikers and visitors, littering garbage all over the forests. When we actually see the garbage left on the trails and paths in the forests, we are truly saddened. Though sharing this earth, some people seem to think that all is right as long as the garbage is not dumped in their backyard. If this situation continues, we cannot leave these forests in good condition for future generations.The message that I really want to convey here is, that although the Okumikawa region may superficially appear filled with rich natural gifts, the general condition of our environment is constantly and quietly deteriorating in many spots. While the economic value of forests and mountains depreciate, some owners of these properties are clear-cutting all of their trees. Some mountains are denuded. A tree takes tens of years to grow like human beings. When we take proper care of the trees, the value of these trees will increase. I beg of your understanding on this point.I am presenting this case so that the participants of COP10 might understand the eco-system of our Okumikawa area better and further.
Okumikawa Region and Its ForestsToyone-villege, Aichi prefectureLocation: Aichi prefecture can be divided into five regions; Nagoya, Owari, Nishimikawa, Higashimikawa, and Okumikawa. Further, Okumikawa can be construed as a part of Greater Higashimikawa, and is composed of the upper Toyokawa river and the areas around the tributaries of the Tenryu river. Administratively it is made of Shinshiro-shi (formerly Horai-cho), Kita-shitara county (formerly Shitara-cho, Toei-cho, and Toyone-mura).This area is the cross-road of Aichi, Nagano and Shizuoka prefectures and it is filled with rich forests. Cedar trees and hinoki-cypress trees so thickly cover this area that we often feel that the sun light does not reach the ground. In autumn, these evergreen trees highlight the red and yellow colours of the deciduous trees. This is the very place where we can intimately feel the changing colours of the four seasons.Festivals of Okumikawa: Hanamaturi(‘The Hana Matsuri’ is a rare entertainment according to the Shinto rites.People dance 40 kinds of styles of Dance through out the night. Its descended from dignitaries who were from mountainside of Kumano and Kagahakusan,to the only the river system of Tenryu , during the end of the Kamakura period to the Muromachi period. And it was designated for an important intangible cultural asset in the 51th year of the Showa period. It is held at 11 different places including: Futto, shimoawashiro, Hukawa, Misono, kobayashi, Higashisomeno,Tsuki, Ashikome,Kawachi,Nakashitara, Nakazaike. in Toei city from the middle of November to the beginning of March. ‘ Toei festival’ is also held with the aim of showing widely about the highlight of the Hana Matsuri on 3rd November)of Toei-cho, Shitara-cho and Toei-cho,Deer hunting festival in Toei-cho,Kagura in Shinshiro-shi (Shinto shrine dance and music),Kaitsuta-bohnote in Shitara-cho (Martial art dance),Mikagura in Toyone-mura (Shinto shrine dance and music),Tamine dengaku in Shitara-cho (Rice fertility dance and music),Sanko festival in Shitara-cho (Buddhist temple festival),Tominaga Shrine festival in Shinshiro-shi,Horaiji Dengaku in Shinshiro-shi (Buddhist temple rice fertility festival).The Conditions of Our Forests in Recent YearsThe mountains of Okumikawa are densely covered with cedars and hinoki-cypresses. Most of them were planted about a half century ago during the Pacific War. These trees planted on the steep slopes are now outside the range of our forest maintenance works. What happens when these forests are not properly maintained? As the trees grow and branches spread out, the ground increasingly becomes devoid of sun light. Then the grasses and underbrush near the ground slowly die out and the mountains lose natural nutrients. As the ground becomes less and less fertile, the animals in the area become hungrier as their food sources become lean. Thus, in order to survive, these animals have to come out of the forests to find new food sources, and thus they encounter human beings. This situation will not return to the status quo ante unless we make a deliberate effort.Our present forestry workers are becoming old. Our forests no longer produce economic gains, and we in fact have to pay large costs just to maintain the forests in a reasonable state of health. Many owners of these forests have aged and moved to urban areas, and the forests remain in a dangerous state. In order to maintain the forests in a proper condition, we must have appropriate knowledge. To start with, these forests are private properties, and outsiders cannot just enter or work on them. The trees in these mountains cannot be just logged without permission of the owners.Above all, the forest workers’ task is dangerous and requires a lot of experience. From early morning till night fall, they often remain on the steep slopes to work. Their work many a time involves accidents and high risks. I am not speaking out of my own experience, but I know these workers do their work while risking their own lives. In the past these forestry workers were proud of their mission and were equipped with abundant knowledge of the forests. I sometimes wonder when our forest industry started to declineOur times have changed. We can no longer economically support our lives, working in the forests. The younger members of our society leave this area for towns in search of better paying jobs. Did this trend begin in the 1960’s? The forest industry has gradually turn into a part-time business, while the price of lumber and the value of mountains keeps falling. Now this industry employs only high aged workers and no young successors, and the value of the forest industry remains low. Meanwhile urban land prices soar. What a contrast this is within Japan! We would like to see people paying more respect to our forest industry. Some sustainable life cycle must be established as these forests are an essential part of our life.We must seriously reflect on our present way of life as we are living in this unforgiving environment, called earth. Affluently flowing rivers and green mountains are an indispensable source of our water. Rain water is filtered by the mountains and becomes our drinking water. Trees also play a significant role in this process. Tree leaves clean our air, and tree roots keep the soil firmly on the ground. We often forget the value of our priceless water and we take for granted an abundant supply of water. We have to recognize the true value of this gift. We often notice some hikers and visitors, littering garbage all over the forests. When we actually see the garbage left on the trails and paths in the forests, we are truly saddened. Though sharing this earth, some people seem to think that all is right as long as the garbage is not dumped in their backyard. If this situation continues, we cannot leave these forests in good condition for future generations.The message that I really want to convey here is, that although the Okumikawa region may superficially appear filled with rich natural gifts, the general condition of our environment is constantly and quietly deteriorating in many spots. While the economic value of forests and mountains depreciate, some owners of these properties are clear-cutting all of their trees. Some mountains are denuded. A tree takes tens of years to grow like human beings. When we take proper care of the trees, the value of these trees will increase. I beg of your understanding on this point.I am presenting this case so that the participants of COP10 might understand the eco-system of our Okumikawa area better and further.
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